by yamada-07
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哲学事始

小学校三、四年生くらいのころでしょうか、私は、自分が死んだらどうなるか、ということを考え出して、ひどく恐ろしくなったことがあります。

今この瞬間に自分がなんらかの方法でもって死んだら、いったいどうなってしまうのか。
おそらく、まず家族は泣くだろう。泣いてくれる友人もいるかもしれない。通夜が行われるだろう、葬式が行われるだろう。火葬場で骨まで焼かれてしまうだろう。骨壷に入れられて家の墓に入れられるのだろう。


じゃあその後は?


それを考えて当時の私はひどい恐怖に苛まれました。

私の家族の中から私という存在が消えても、もっと広く捉えれば、世界から私が消えても世界は変わらず存在し続ける、ということに、言い知れぬ虚無感と寂しさ、そして恐怖を覚えたのです。

さらにそこから派生し、そもそも自分が生まれていなかったら、という問いを立て、再び恐怖に襲われたりもしていました。
まずは、「自分は世界に生まれてはいないけど、それを俯瞰的な位置から観ているポジション」、言わば神の視点のようなところから世界を想像します。
私の家族を見てみれば、家族六人(本来私の家族は七人ですが、そこからマイナス私ということで)がなんの変哲もない生活を営んでいて、学校を見てみれば、私の席が存在していない教室でいつも通り授業が行われている。そんな想像をしていました。
その想像自体は、ただ「自分がいない世界」というものの思考操作です。怖いなどと思うことなく想像にふけっていました。

しかし、あるとき「その想像は間違っている」とはたと考えます。
「本当に『私』が存在しないなら、そのようなことを見ていろいろ考え、思い、感じられることもないのだ」と。
そして、それを想像した瞬間、今までにない恐ろしさにとらわれたのです。
↑のように世界を見ることもできない、なにか感じることもできない、そもそもそんなことをする主我が存在しない、と考えたときの恐怖は筆舌に尽くしがたいものでした。

自分は世界に必要ないし、世界に対しなんらかの影響を行使したと思ったこともまるで意味はない。自分が生きてても死んでても、そもそも存在していなくても、世界は変わらずあり続ける。
その事実は、アソコに毛も生えてない子供の心に深い爪痕を残したと思います。


もちろん当時はまだ10歳になったかどうかの小学生。ここまで言葉を使ってその感覚を意識していたわけではありません。もっとたどたどしく、稚拙な感情表現でそれを感じていたのです。
ゆえに、その恐怖に上手く対処できず、ふとした拍子に「死んだらどうなるのだろう」と考え出し、家の二階から地面を見たりしていました。無論、よっぽどな落ち方をしない限り、三メートルもないところから落下しても死にはしません。まだまだそこらへんは子供でしたから。


今ではそんな思考の袋小路に追いやられることもなく、思案をめぐらすこともできるようになりました。しかし、子供の頃に到来したその虚無感と絶望感は、ずっと私の心の中で根を張っています。

曰く「世界は自分がいなくてもまわっていく」と。

私の考えに、けっこうな強さでバイアスをかけている気がします。



ちなみに、内田樹氏によりますと、↑のような問いから脱出するために存在するのが「哲学」だそうです。
なかなか、哲人な幼少の私だったようです。

あーね、「10で天才、15で秀才、二十歳過ぎればただの人」ってやつですか。
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by yamada-07 | 2005-07-04 01:06 | 駄文