by yamada-07
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自己の起源の根本的遡及不可能性 ~満員電車の酔っ払いはなぜ腹立たしいのか

昨日のバイトの帰り道、定期圏内の終電を逃してしまったために、やむなく余計なお金を払いJRで帰りました。年内の仕事はもう終わり、明日(すなわち今日ですな)には帰省もできると思うと、多少の残業も特に抵抗無くできたのです。
しかし、予想外の出来事は帰りの混雑した電車内で起こりました。
自分のバイト先の居酒屋の繁盛ぶりもあり(実際そのせいで終電を逃したわけだし)、年末終電間際の電車がどれだけ混雑するかは百も承知でした。
高田馬場から乗った山手線、最寄りの駅まで押し合いへしあいされながら帰らなければいけないのかと腹を括っていましたが、池袋で大量の乗客が降りた際に、幸運にも座席にすわることができたのです。やれうれしやと疲れた体をシートに沈ませていると、隣のほうからやたらと耳に障る話し声が。少々ムッとしながらそちらを見やると、したたかに酔っ払っている乗客三名(♂×1、♀×2)。特に男性の酔い方が手ひどいようで、傍若無人な大声で連れの女性に向かって話しかけていました。
会話の内容など、酔っ払いの例に漏れず、同じことを何度も繰り返している中身の無いもの。聞いてて面白味などあろうはずがありません(もっとも、いまだかつて見ず知らずの人の会話を通りすがりに聞いて面白かったことなどありませんが)。
混雑した車内でせっかく座れた座席、しかしその隣からは神経をイラつかせる話し声。肉体は休まれども、精神は休まらずといったところでしょうか。目的の駅に着くまで、不機嫌になりつつも席は動かずに座っていました(ところで、なんで癇に障る話し声ほど耳に届くよう選択されるんでしょうかね。常々思う疑問です)。


さてここからが本題。ここまではただの枕です。ここで話が終わってしまったらただの愚痴ですからね。

私は、さきほど酔客男性の話し声が癇に障ると書きました。そして、より正確を期すならば、話し声だけでなく、会話の内容、車内での態度、その他もろもろ多くのものが私の気に障ったのです。

なぜか。
なぜそこまで私は見ず知らずの人の行為、社会的態度、生理的特徴に対して嫌悪感を抱かずにはいられなかったのか。

この際、私の心が狭いだとか、大人げないだとか、性根が捻じ曲がっているからだろとか、根本的かつクリティカルな問いは無視します。
ここで問題なのは、いったい何を起源として私の選好は形成されたのか、ということです。

シンプルに考えれば、それは私の過去に根ざしているものであろうと言えます。
例えばこの例の男性のような声を持つ男に誘拐されただとか、電車内で酔っ払っている客に絡まれただとか、無内容な話を延々聞かされて精神を病んだことがあるだとか、そんな過去があるなら確かに話は早い。むしろそんな特性を現在所有する男と同じ空間に居合わせて、平静でいられるはずがありません。
だが、惜しいかな、私にはそんな経験はありません。そんな犯罪の匂いのする過去とは、とりあえず今現在回想する限り無縁に生きていると思います。

もしかしたら、トラウマと呼びうるほどにハードな過去があり、私自身それを通常時では封印しているが、時としてそれを想起させる経験に遭遇した際には、嫌悪感、拒否反応などといったものが浮かび上がってくるのかもしれません。ですが、すべての自分の選好がそのような過去に強く根ざしているものであるとは言えないでしょう。皆無とは言わないまでも、極々少数の例に限られるはずです。

過去に根ざしているとはそこまで強烈な意味合いではない、もっと些細なものの集積である、といった論が次には待ち受けていることでしょう。
そして、私が言いたいこともまさにそれなのです。
自分自身の選好のほとんどは、自分自身ではほとんど意識化することのできない過去の経験の集積なのではないか。あるいは、意識化することのできる経験でさえも、それがなぜ自分にとって選考の基準となりうるかは言語化できないのではないか。そう思うのです。

例えば冒頭で挙げた、私が遭遇した酔っ払いの例。極端な話を先ほどしましたが、実際のところ、私がなぜ人前で泥酔している人間に対して嫌悪感を催すのかについては推論が可能です。
その原因は私の父に起因すると考えることができます。酒乱とまではいかないものの、酔うとテンションが異常に跳ね上がる父は、大勢の人が集まる場で酒を飲むたびにはっちゃけた行動をとり、その度に同席している私たち家族を恥じらいのどん底に突き落としてくれるのです。
これが、私が酔っ払いを嫌悪する起源のひとまずのボーダー。なるほど、こう考えれば私の選好にも合理的な選好がつくでしょう。
しかし、ではなぜ私は父のこのような行為に対してひどく恥じ入ったのか、といった心的推移についてはまだ説明がなされません。実際に私の兄姉を見ても、そこまで酔っ払いを嫌悪している節はないし、それどころか酔っ払った父への態度も私よりもずっと寛大でしょう。おそらく私の家族のうちで父の酔っ払いぶりに辟易しているのは、私と母なのだと思われます。
身内の恥暴露はその辺にしておいて、以上に見たように、ある対象に同様に接してもそこに抱く感想は異なり、ではそれがなぜ異なるのかと考えていくと、自我意識の成立段階まで延々遡っていかなくてはなりません。そして、そこまで遡れたとしても、自我成立以前の話などしたくてもしようがありません。そこでQEDなのです。

ここで改めて言いましょう。選好という言葉で限るまでもなく、人間誰しも自己の根本的な起源には遡及しえません。自我の中心は不可知の霧の向こうに存在しており、そこまで決して手が届かないのです。


ですが、これこそ人間の創造性の根本原理なのではないかと私は思います。
自己の最深奥にはなにがあるのか、誰にも決して分からない。そして、あるいはだからこそ、その闇の向こうからこそ、未知なる物が到来しうるのではないか。そう思うのです。

逆のケースを考えて見ましょう。
自分の知識、精神の在り様、言語運用規則、それらが全て整然と理解されている。具象的な比喩を用いれば、自分という名の博物館が、24時間完璧な体制で管理されているという状況です。
そのような場所から、一体どのようにすれば自分の限界を超えられるものが出てくるでしょうか。
博物館を荒らす泥棒を見つけることはできるし、地震が起きた後にすぐ同じように復元はできる。ですが、そこに完璧さが存在する以上、いや、その完璧さが存在するゆえに、博物館の根幹を揺るがしうるような奇跡の発生はなされないのです。
完璧は、そこに誤謬がないがゆえに完璧です。
そして完璧であるということは、その誤謬が発生する余地すら許しません。
もし博物館が完璧を志向するなら、今までその博物館で展示してきた品々の歴史的意義をひっくり返しかねないものは、黙殺されるしかありえないのです。

このように、創造という行為は、理路整然と展望できる見通しのよい場所から忽然と姿を現すのではありません。奥がよく見えない、アモルファスでごちゃごちゃした塊の中から産声を上げるのです。

最近はあまり耳にする言葉ではありませんが、「自分探し」という行為は、この創造性の息の根を止めるに等しい行為だと思います。
ごちゃごちゃしていてなんだかよくわからないことが本質であるはずの自分の根源を、無理矢理「探し」出し、出来合いのストックフレーズに変換してしまうことは、自分の心を既存の博物館の真似をして配置してしまうのと同様です。そこから生まれてくる創造性など、結局はその出来合いのストックフレーズを使いまわしているのと変わりません。未知は未知であるがゆえに創造的なのです。


夜の満員電車での愚痴が思わぬ方向に向かいましたが、これはこれでよしとしましょう。
それではみなさん、くれぐれもお酒には気をつけて。
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by yamada-07 | 2005-12-30 22:53 | 雑記