by yamada-07
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「おとな」と「こども」 ~エヴァンゲリオンの視聴者の知性

なんあかやのあれやこれやで、自由な時間が溢れている今日この頃、こんな天気のいい日がチャンスとばかりに、昼間っからエヴァンゲリオンのDVDを観ていました。

このアニメが最初に放映されたのは、今を遡ることおよそ十年、まだ私が小学校高学年の頃だったと思います。今の私しか知らない人から見れば信じられないことでしょうが、当時の私は結構なテレビっ子だったので、夕方五時から七時まで、家に帰れば毎日がアニメアワーでした。さらに信じがたいことに、中学生くらいまでの私は半いじめられっ子だったので、本とテレビが一番の友達といってもよかったほどです。そこらへんは愛と勇気だけが友達のアンパンマンと合い通じるところがあるとも言えるでしょうか。さすがテレビっ子。
そんなこんなだったので、夕方六時からはテレビ東京が定番。関東圏限定の話で恐縮ですが、子供の王道12チャンです。
エヴァが始まった時の衝撃を今でも覚えています。毎週欠かさず観ていたであろう水曜夕方六時からの12チャンのアニメ、それが前の週で最終回を迎え、今週から新番組が始まるとのこと。何がしかの用事で六時の放送開始には間に合わなかった私は、オープニングの主題歌、CMを見逃して、本編開始直後からテレビの前に座っていました。そして五分ほど観ていたところでまず抱いた感想。

「なにこれ?」

頭の上に大きなハテナを浮かべて、理解不能をありありと顔面に滲ませながら首を捻りました。
最初のCMまで観たところで夕食の時間となり、普段なら見終わるまで頑としてテレビの前を動かない私でしたが、疑問符に体を支配されていたその時の私はおとなしく隣の台所に行き家族と食事をとりました。そしてそれ以降、水曜六時にテレビの前に座ることはなくなったのです。


それから時を経ること十余年、少しばかりは世間に揉まれた私が改めてこの作品を観て、当時の私がこの作品を観続けることができなかった理由がようやくわかりました。
このエヴァだけでなく、ほぼ同時期に放映された「機動戦艦ナデシコ」などの作品にも言えることですが、これらの作品は完全に「おとな」に向けて作られていたのであり、「こども」など端から相手にしていなかったのです。

さて、ここで重要なのは、従来的な意味とは異なる「おとな」と「こども」の概念です。
勿論ここで言及している「おとな」と「こども」は、肉体的な意味ではありません。第二次性徴を迎えているかどうかを基準にしようが、生殖行為を体験しているかどうかを基準にしようが、そんなこととは一切関係ありません。ほぼ100%精神的な部類に属する「おとな」と「こども」の区別です。
結論から先に言ってしまえば、「未知を未知のままにしておくことができるか」、「世界を既知で埋め尽くさないでもいられるか」という基準線、つまり、「世界の未知性に耐えうるもの」を「おとな」と呼び、「未知に対してwhatとwhyを叫ばずにはいられないもの」を「こども」と呼ぶのです。

少々脱線しますが、この区別は人間とコンピューターの知性の差としても言うことができます。
精神分析家のラカンの秀逸な比喩を引いてみましょう。
ある夜、航海中の船の当番員が、沖合いに浮かぶ物体を発見しました。時間は深夜、あたりは暗く、船からその物体までの距離もあるため、その物体がいったいなんであるのか明確に判別できる状況ではありませんでした。このときこの当直の人間は航海日誌に「・・時・・分、緯度・・、経度・・の地点でよくわからないものを発見」と記すでしょう。しかし、機械ではこのようにはいきません。コンピューターの知性では、いったん確認しものを判らないままにしておくことはできないのです。最終的な情報処理は、よくわからないものを無理矢理既知のものに同定するか、あるいはなかったものとしてその存在そのものを認めないのです。
つまり、未知の未知性を毀損することなく判断を保留できることこそ、人間とコンピューターの知性の間の大きな隔たりなのです。

閑話休題。
先ほどエヴァは「おとな」向けに作られていると書きましたが、それはまさにこのような知性を有するものを対象として、このアニメが作られているということに他なりません。
確かにエヴァはその作品の意味内容を理解するには、ある程度の知識は必要でしょう。キリスト教(聖書)的背景、ディティールにこだわっているがゆえの社会的・歴史的知識、近未来SFのお約束である物理学用語……、それらがぎゅうぎゅうに詰め込まれている、内容の非常に濃い作品です。
しかし、それらの知識は、ただ一つの知性によって代替が利きうるものなのです。それが先ほどから何度も触れている「未知に耐えうる能力」です。
使徒の名前が聖書から引用されているとか(そもそも「使徒」という単語そのものがそうですが)、大規模災害の後にこのような社会的措置がなされるであろうという予備知識とか、ポジトロンが陽電子を意味するとか、そのようなことは知っても知らなくても大差ないことです。
それらを知らないままでも楽しめる能力を持つものを想定して作品を作ったからこそ、庵野監督はここまで好き勝手できたとも言えるでしょう。

また、「おとな」を想定した知性の在り様は、第一話から常に縦横無尽に張り巡らされていて、結局最終話まで観て映画も二本観ても回収されきれていない伏線についても言えます。
これはさすがにやりすぎだろうおいおい最後まで観たけどまだわかんないようそ映画を観てもまだわかんないの信じられなーい的なこの伏線の張り方も、視聴者がその伏線に耐えうると信じていたからこそ、蜘蛛の巣よろしくここまで張り巡らしていたのでしょう。当時の私のようにまだ「こども」の知性しか持たない憐れな蝶は、その蜘蛛の巣に捕らえられてそのままチャンネルを変えるしかできないのです。伏線はすぐに明かされて欲しい、自分の前に自分の知らないことが放置されているのが我慢ならないという知性では、結局コンピューターと同様、それをなかったことにして、二度とその番組には関わらないようにするという対抗策しかもてません。
エヴァは、伏線があることを楽しめる「おとな」でなければ楽しめないアニメなのです。


あれから歳を経て幾星霜、私もすこしはおとなになりました。伏線の蜘蛛の巣の造形美を楽しめるようになりました。エンディングテーマが「Fly me to the moon」であることに気づけるようにもなりました。日本のアニメーションの高水準に改めて驚嘆しながら、この春のうちにエヴァを全制覇しようという所存でございます。
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by yamada-07 | 2006-02-04 14:53 | 雑記