by yamada-07
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言語運用能力の根本

我が意を得たりとばかりの内田樹氏のこの記事。

最近になってこりこり小説を書いていますが、この記事で言われていることが強く実感できます。
私が小説を書いている時、意識表層の私は、今書いている(あるいは書かんとしている)文章をどのように完結させようとかどのような展開にしようか、ほとんど理解していません。理解していないなどというと奇妙な言い方かもしれませんが、まさに自意識、自らの行動に対する不理解なのです。
シャーペンを握ってレポート用紙を前にして(パソコンがあるにも関わらず、小説を書く時はこのようなアナログなやり方が好きなんです)、とりあえずの舞台状況を設定して最初の文を書き出す。私の自意識が明確に働くのはここまでです。あとに続く文は、その最初に書かれた文と舞台設定に応じて、ほとんど自動書記のように記述されていきます。感覚としては、プロの小説家や漫画家の言う、「キャラクターがひとりでに動き出す」、というものに近いのではないかと思います。

私は、私がこれから先なにをどのように書こうとしているのか判っていません。文を書いているまさにその瞬間において、私は私がなにを書きたいのか理解するのです。
では、なぜ私は自分が何を書きたいのか理解していないにも関わらず、筋のある文章を書くことができるのでしょうか。ここで、妖怪にとりつかれているからという珍説を持ち出して、現代妖怪辞典に新たな一ページを加えることはできない相談ではありませんが、それはとりあえずお蔵入り。いえ、はっきりとできない相談です。

ならば、いったいいかなる理由によるものなのか。
それは、おそらく私の中である一定の秩序に基づいて「母国語が骨肉化している」だと思われます。この各人固有の秩序形態は十人十色の多種多様、その人の生来的特質、環境的条件などによりあらゆる形をとることでしょう。その肉付きの程度こそが、その人の個性というやつだと思います。
ですが、不幸にして母国語が骨肉化していない人間は、その言語運用能力において致命的な欠陥を有さざるを得ません。単語の選択が誤っている、てにをはが不適当だ、文章に筋が通っていない等々。それは骨折した人間や極端に栄養失調の人間が、正常な身体活動を行えないことと同様です。その形はどうあれ、まず最低限の骨肉を持たないことにはどうしようもないのです。

ここで少しわき道にそれますが、創造性というものを考えてみましょう。
一般的に創造性というものは「無からの存在の立ち上げ」、「独創性」などと解されますが、上述したことを踏まえて改めて考えると、それら(つまり「創造的なもの」ですね)は決して全くの無から生まれたわけでもないし、他の何物にも由来しない孤高のものであるわけでもないことが推論できます。物事の「創造」とは、あくまで今まで自分が培ってきた経験からのフィードバックにより行いうるものであり、「創造」そのものが単独で存在しうるわけではないのです。キュービズムを「創造」したピカソだって、ビバップを「創造」したチャーリー・パーカーだって、その前段階で必ず生み出したものに繋がるなにかを習得しています。仮に今まで存在していたものと一切全く欠片も関係ないものを生み出したとしても、それも「今までの一切と関係ないようものを生み出す」という、関係性を捨象する形での関連性があるはずです。
つまり、上述と関連させて結論を述べれば、「創造」を成し遂げるには、必ずその分野の基本技能の骨肉化が必要なのではないか、ということです。


まさか、「キャラクターが勝手に動き出す」なんていう作家さんたちの気持ちがわが身に起こるとは思っていませんでしたが、氏のブログを読んで合点がいったと同時に、自分の日本語能力もちゃんと機能しているんだなぁと少々嬉しくも思ったり。
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by yamada-07 | 2006-02-08 01:00 | 雑記