by yamada-07
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言葉の力

別に朝日新聞の例のキャッチコピーとは関係ありません。あのフレーズには言いたいことはありますがひとまずそれはさておき、今日は詩のお話です。

普段私たちが使う言葉は、論理的であることが前提とされます。論理的であるということは、そのその言語体系の使用規則に則り、聞き手に対してある程度以上同質の解釈を求めるということです。もちろんその言語使用状況が私的な場面、親しい間柄になればなるほど、その論理性の簡略化はなされ、厳密性が薄れますが(こそあど言葉の多用や、限られた人間しかわからない符牒の使用など)、それは言語使用の大筋を破棄するものではありません。

しかし、そのような言語体系にとらわれない言語表現があります。それが詩です。
詩は、もちろんそうでないものもありますが、一読した時に従来の日本語体系とはそぐわないものが多くあります。試みに宮沢賢治の詩を例に出してみましょう。

春と修羅・序

ま、日常会話でなされる文章でないことは確かですね。普段の生活でこんなことを誰かに口走られた日には、あだ名は即電波ちゃんに決定です。
宮沢賢治まで行くと極端かもしれませんが、大なり小なり、詩というものにはこのような言葉の撹乱というものがみられます。従来の言葉の使われ方に対する反逆。体系の中を自由に動き回る奔放。言葉の意味への挑戦。そのような秩序紊乱のごとき存在感を詩は示すのです。

しかし、このような意味不明さにも関わらず、詩を書く人がいて、読む人がいて、求める人がいて、評価する人がいて。いったいなぜなんでしょう。

思うにそれは、詩というものの中に顕在している言葉の力そのものではないでしょうか。
これは言葉により現実を編成しなおすだとか、人の考えを直截的に変えるとかそういう話ではなく、言葉そのものに内在しているその存在感です。この存在感にはベクトルはなく、『まさにただそこにある』言葉としての内実です。
従来の言語体系から逸脱することで、そこには既成の文脈的意味が付与されず、ただその言葉の音響イメージと対応する世界の事象、さらには作者独自の言葉の組み合わせによる新たな文脈性の創出。その結果として、「詩」という一つの個的な世界が生み出されるのです。
その世界は言葉の響きによる音響を持ち、言葉から想起される事象による視覚的イメージを持ち、さらには創出された世界から溢れてくる嗅覚・触覚・味覚さえも存在しだすのです。

「言葉の力」というものを、もっとも直截的に、シンプルに表現する手法が「詩」なのではないでしょうか。
すばらしい詩を読むと、私は自分の掌の中に何か不定形の塊が生まれてくるような感覚に襲われます。それこそが、言葉の「力」であり、「世界」なのでしょうか。

うーん、言葉って素敵。
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by yamada-07 | 2006-03-13 23:51 | 雑記