by yamada-07
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「自分探し」

ちょっと前に流行った「自分探し」ってありますよね。私、あれ大嫌いなんですよ。「本当の自分」とかの単語をきくと気分が悪くなります。

のっけから語調が荒くなり失礼しました。ま、今回はそこら辺の話をちょいと一席。


そもそも「本当の自分」てなんですか?これは好き嫌いの感情で無しに、私にはどうにも理解できないものなんです。想像力をいくらがんばらせてみても、いまいちピンとこない。
こういう言葉が使われている文脈から察するに、「理想の自分」に近いものなんではないでしょうか。
しかし、それならなぜそう言わないのか。きっと意味にそんなに隔たりがあるわけではないので、この「本当の」という部分には、使っている人たちの心理的なバイアスがかかっているのだと勝手に予測。そして、そのバイアスについて考えてみたいと思います。

「本当の」という連体修飾語、そして同時に「自分探し」という言葉。これらからイメージされることは、「まだ見つかっていない(出会っていない)理想」です(私の場合)。そう考えれば「本当の自分」てのは「理想の自分」の前段階ってことですよね。これだけ考えれば、それほど問題のある単語ではなく思えます。しかし、この具体的でない目標と言うのは、けっこう厄介なもののような気がするんですよ。

「本当の自分」が使われる状況の例をちょっと挙げてみます。

「今の私はこうして皆と笑ったりしてるけど、本当の私はこんなところにいちゃいけないんだわ」
「俺はこうして仕事をしてるけど、本当の自分はこんなところにいるべきじゃない!」

タイピングしてて苦痛でしたが、今は我慢します。

この例はさっき述べたように、「まだ具体的にはわからないけど、もっとかっこいい自分になれる」という考えの表れと読み取れます。が、同時に別の見方もできないでしょうか。つまり、「今の自分がかっこ悪いのは、周りの環境が悪いからなんだ」、という風に。
「もっと素敵な自分を見つける」というポジティブな姿勢と、自分のへたれさを周りのせいにしているネガティブな姿勢。私がこの言葉に嫌悪感を感じるのは、後者のほうを優先的に感じてしまうからなのでしょう。

そう思ってしまうのにも理由があります。私自身は、周囲の環境次第で自分の表象的な部分は無限に変化すると思っています。「表象的な部分」ときいて勘違いをしてほしくないのですが、これは心の奥深くに自我の中心があるという意味ではありません(それでは「本当の自分」と同じものになってしまいます)。表象部分、すなわち言葉遣いや身振り手振り、あるいは服装などもそうですが、それらが変わることで、人間は考え方も変わると私は思っています。映画の「インファナル・アフェア」なんかは、そいうもんなんじゃないでしょうか。さすがに普段の生活で考え方が180度変わるというほど極端なものではないですけども。
ま、なもんで、環境、周囲の人間関係が変われば、「私自身」というものも当然変わります。学校、サークル、バイト先、親類etc...。全部が異なる「私」です。ここでこうしているネット上の「私」も、現実の私とはいろいろ違います。言葉遣いなんか特に。
そして、全部が異なる「私」で、(言い方はいやですが)全部が「本当の私」です。そのある状況における「私」はその一つでしかなく、どこか他の場所に「本当の私」がいるわけではありません。
だから、「素敵な自分を見つける」なんていう行動、思いは、私の色眼鏡からはどうにも見て取れないのです。


「本当の私」があると思う人は、つまり、その状況に自分があっていないと感じている人なのだと思います。有り体に言えば、その状況がつまらない、周りのやつらが面白くない、と感じているのでしょうが、それを口に出すのは(あるいは意識化するのは)体面上憚られる。そんなことが周囲にもし漏れてしまったら、いっぺんに孤立してしまいますからね。だから、その責任を自分で過剰に引き受けようとしている。でも、自分が悪いわけではない(と思いたい)ので、能力などの欠如ではなく、今の「自分」以外にもっと有能な「自分」がいると考える。
これが「本当の自分」が使われるプロセス、そしてバイアスなのではないでしょうか。

しかし、「本当の自分」という虚構のものに現実の不適合を仮託するのは、楽なやり方かもしれませんが、うまいやり方だとは思いません。そのように考えてしまうと、他人との差異、不理解に対して、それを埋め合わせたり摺り寄せたりするのでなく、「これは『本当の私』ではないから」と切って捨ててしまう。これはコミュニケーションというものを考えると非常に危険な行為です。相手との差異を互いに理解しあうという根本的な理念が、そこには存在していないからです。たまたま初めに話したことが自分がよく理解できることだったという人とのみコミュニケーションをとっていても、それは非常に閉塞的なものです。

コミュニケーションについてはまた別の機会にもっと詳しく述べたいと思いますので、そろそろ今回の締めを。
まあ「『本当の自分』なんて存在しねえ。夢みてんな!」っていうのでもいいんですが、もそっと理性的に。

人はありとあらゆる状況で、そのためだけの「自分」があります。その状況にそぐなわさを感じても、それはたいしたことじゃありません。自分がその人たちと趣味があわないか、コミュニケーションが順調に進んでいないか、どちらかです。すべての場面に活用できる、万能で単一な「自分」なんてものはどこにもないと思います。
私としては、こういう突き放したような見方をする「自分」を一人もっておくと、便利かとは思いますけどね。

山田でした。
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自分探しの旅に出て、二度と戻ってこなかった……



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by yamada-07 | 2005-04-26 03:30 | 雑記