by yamada-07
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「信じているもの」

友人のブログから着想を得て書いてみます。詳しくはこちらから。


人間なにかしら「信じているもの」ってありますよね。社会通念とかそういう話じゃなくて、もうちょっと個人的なレベルで。目標とか信念などに言い換えても可です。
モチのロンで、それらは全て個人に属すものですよね。誰が何を信じてようが、その人の好き勝手です(他人に甚大な迷惑をかけなければ、の範囲内の話ですけど)。
けど、全てが個人に属するってことは、外的な根拠が存在しないってことでもあります。最終的にその「信じているもの」を選択したのは自分なのですから、外的なものに求めちゃいけない、て方がより正確でしょうか。

でも、そうなると、その「信じていること」ってなんだかずいぶん頼りなくなっちゃいますよね。その拠り所が自分だけなんて、けっこう不安な話です。ともすれば、「信じているもの」は本当に信じるに足るものなのか、この「信じているもの」は他人にはひどく迷惑になってしまうのではないか、という考えも浮かんでしまうと思います(私なんかしょっちゅうです)。

でも、それでいいんじゃないでしょうか。

「信じているもの」を一切疑わず盲信してしまうよりは、自分でなんどもそれを省みるほうがよっぽど健全だと思います。
私の「信じているもの」は正しいと思う。でも本当にそうなのかな。誰かに余計な迷惑がかかっちゃっていないかな。ちょっと点検してみよう。
信念と疑惑の螺旋を描くことで、その「信じているもの」は「信じるに足るもの」になれると思います。信じているけど疑っている。そんな矛盾した「ねじれ」を引き受けてこそ、「信じているもの」の確かさは担保されるのではないでしょうか。

「信じているもの」の中から疑いのまなざしが抜け落ちてくると、次第にそれが意識の中で前提化されてしまいます。
前提化されるということは、それが当たり前だと思うようになるということ。そして、当たり前のことに異論を挟む人は、その人にとっては認知不可能な人になるということ。認知不可能な人とは、もはや「人」とはみなされないということ。

テロリストの論理になってしまいましたね。これがまっとうな理屈とは言いがたいですけど、そこまで的外れなわけではないかと。ちょっと怖い話ですね。


ま、最後のは極論ですけど、なにかをむやみに信じすぎるのはあんまよくないんじゃないかなぁと思います。疑うという行為は健全な精神活動だ、って誰かが言ってましたし。それでも疑心暗鬼になるのは考え物ですけどね。なにごともほどほどがよろしいようで。山田でした。
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↓だからこの文章にもほどほどの疑惑の目を向けといてください。ほどほどに



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by yamada-07 | 2005-05-07 12:18 | 雑記