by yamada-07
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気を遣わなくてもいい人

好きなタイプは?と問われ「気を遣わなくてもいい人」という答えをする女の子がいた。そして同時に「話の合う人」「楽にできる人」という答えも。

どうなんだろう、私は好きな人ほど気を遣いたいと思うのだが。

好きな人と一緒にいる時ほど、その人が今この瞬間快適でいられるように、眼に見えるところ見えないところを問わず気配りをしたくなる。好きな人が喜んでいることを自分の喜びとできなければ、濃密な関係性というのは成立できないのではないだろうか。

「気を遣わなくてもいい」「楽にできる」
この二つはいずれも、自分本位の考えだと取られても仕方がないような気がする。
「相手に気を遣わせない」「相手を楽な気持ちにさせたい」
そう考える方が良好な関係性も維持できるだろうし、そもそも、そういう考えは結構楽しいものだと思う。まあそれは、前述の「好きな人の喜びを自分の喜びとする」を肯定するかどうかだが。

あるいは逆に彼女は、「自分が楽しければ相手も楽しい」という前提の上にこのような意見を述べたのだろうか。
たしかにその意見には一理ある。一対一の関係のみに関わらず、集団を形成している時に誰か一人でも不機嫌な人間がいれば、それだけでその集団の雰囲気は悪くならざるをえない。二人きりのときなど、それが極めて露骨に顕現するため、良好な関係を持続させるために、まず自分が楽しくなるというのは筋の通った話だ。

しかし、それのみが表明されては、それに付き合わされる相手は溜たまったものではないと思う。
その命題においては、対偶だけでなく、逆も真であるべきだと思う。ともすれば、この命題を声高に主張するものは、裏を真として認めてしまうような考えを持つかもしれない。たぶんそれは、危険な考えだ。

そもそも、「気を遣わなくてもいい相手」などいるのだろうか。多かれ少なかれ、好悪の感情による程度の差はあれ、必ず人は誰かに気を遣って生きているはずだ。相思相愛のカップルでも、トイレの時に扉を閉めるという配慮はあるだろうし、どんなオープンな家庭でも、子供から「なぜセックスしたの?」と聞かれて困らない親はいないだろう。
嫌いな人間なら嫌いな人間で、この人とはあまり関係を結びたくないという、ネガティブな意味での、斥力的な気の遣い方をするはずだ。
「気を遣わなくてもいい人間」などというものは、相手にどう思われてもかまわない、相手をどう思ってもかまわない、つまり相手を人間として認めていないときにのみ現れるという、非常にアンピバレントな存在であろう。
戦後、東南アジアで捕虜になっていた日本人の前で、アメリカ兵は女性でさえも平気で全裸になって着替えをしたという(会田雄二『アーロン収容所』)。彼女らは、日本人捕虜を人間であるとは思っていなかった。彼女らは、日本人捕虜に全く気を遣っていなかったのだ。
もちろんこのような関係が、恋愛関係というエロティックなものにはなりようがない。

あるいは、彼女は「それは『気を遣わない』のではない、『配慮をしていない』ということなのだ。私だって好きな人にはもちろん配慮をする。心配りを欠かさない。今言った『気を遣わない』は『気を張り詰めさせなくてもいい』という意味なのだ。精神に余計な負荷をかけないで済む、気を楽にして付き合える人、という意味なのだ。深読みするんじゃねぇこのゲス山田」と反論するかもしれない。
けれど、「常に気を張り詰めさせなくてはいけない人」なんて、恋愛感情に関わらず、友人関係の意味でも仲良くなれようがない。そんな精神をすり減らせるような意味で「気を遣う人」なんて、私は友人とも恋人とも認められない。それは単に「敬遠すべき人」だ。
つまり、彼女の言明は、恋人という一定以上に親密な関係を示して然るべきの人間を表すには意味をなしていないと言えるのではないだろうか。



ま、そんな彼女には彼氏がいて、そんなことを言ってる俺には彼女がいないというこの現実は、どちらの主張が正しいのかはっきり示しているのかもしれない。

でも俺は諦めないぞ。
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by yamada-07 | 2007-06-22 00:54 | 雑記