by yamada-07
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いわくつきの商品

任天堂から「DS文学全集」なるソフトが出るそうな。
その名のとおり、明治期からの著名な文学作品を収録したもので、百冊からの古典を読めるという(随時配信して、その数は増えていくらしい)。
たしかに便利といえば便利なのかもしれない。100作品で2800円なら割安といってもいいだろうし。

でも、与えられたカテゴリーの中からシーケンシャルな形でしか読めないというのは面白くないと思う。
ある好きな作品があって、同じ作家だか集めるとか、その作家の師匠だから読んでみるとか、同じ賞を受賞しているから手を出してみるとか、そういう形のほうが読書の幅は広がるんではなかろうか。押し付けられた趣味は難しいぞ。

特に、個人的に本は「出会い」であると思っている。「縁」といってもいいけど。
自分が読むべき本は、その必要なときに出会えると信じてる。
その縁が転がってるのは本屋であったり、作中のあとがきであったり、友人の本棚であったり、家人の言葉であったりするわけで、ゲーム売り場ではあんまりないわな。
面白い本を探す醍醐味の一つは、本屋に行って目に留まった本をパラパラ見ながら何を買おうかうきうき迷うことだと思う。幾度となく失敗もあるけど、それ以上に面白い本と出会えた時はたまらない。


というか、真面目に古典を読もうという人間ならDSではなく本を買うだろうし、お手軽にDSで古典を読もうって人間が2800円分内蔵されている文章を読めるとは思えない。古典はケータイ小説じゃないんだぞ。

あと、本を読む時間のない人にあらすじを読むのを勧めるのはいただけないだろう。そんな知識を得たところで教養と呼ぶことはできまいに。「あらすじ機能でお手軽読書」などと謳ってはいけない。
本の価値は、内容も確かにそうであるが、それと同程度に文章の手ざわりが重要なはず。そこに価値を見出さないないなら、古典を読む必要性なんかないと言ってもいい。
どういうことかといえば、古典、特に明治期を中心とする文章は、明らかに現在とは次元の異なる教養が伏流している。具体的に言えば、それは中国古典などの漢文、漢詩に対する知識だ。かつての知識人には当然の如くそれらの知識が備わっていたため、文章の端々にもその跡が見られ、またそれは衒学的なものではなく、ごく自然な表れだったのだろう。
現在そのような文章を書く人間はほとんど存在していない。時代の流れもあるし、それを一概に否定的に考えることもないが、そのような文章が極端に少ないことは事実だ。古典には、そのような漢文的な文章を味わい肥やしにするという意味もあろうに、その意味合いを一切なくしたあらすじのみで古典を楽しもうなどとは笑止千万。てか、それ絶対楽しくないだろ、あらすじしか読まないって。


「ちょっと古典でも読んでみっか」という三日坊主の人間には売れるかもしれないが、たぶんそれっきりだろう。任天堂もあざといな。
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by yamada-07 | 2007-10-11 18:43 | 雑記