by yamada-07
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見えそで見えない高い壁

ペットを飼ったことのある人間とない人間の間には、見えそで見えない壁がある気がする。特に、青春期を終える前に飼ったかどうかで。

それは、動物(特に愛玩動物)に対して「余裕」が持てるかどうかと言うことなのだと思う。
簡単に言ってしまえば、動物に対する慣れということなのだけれど、そう言い切ってしまうのとはちょっと違うニュアンスで。

(愛玩)動物を見て「かわいい」という感想を持つのは、老若男女問わずありうる反応だけど、ペットを飼ったことのない人間は、そこに手放しの喜色を浮かべてしまう。「手放し」がわかりづらければ、無節操と言ってもいい。
別に悪い意味合いではなく、感情の目盛りが最初からMAXまで跳ね上がってしまうということだ、極端な話。

普段から動物と触れ合う機会がないと、いざ実際に触れ合ったときに、どう取り扱っていいか解らない。経験者にはわかる微妙な力の入れ具合や、触れていい箇所悪い箇所、そんなことがわからないから、「余裕」がない。余裕がないから、感情のふり幅がフラワーロックみたいに激しい。動物の愛らしさにぴょんと飛びついてしまうのだ。 あるいは、その感情の振れ方が逆に行けば、過剰に怖がることになる。さらにあるいは、そもそも針が動かない、無関心を貫く態度をとる。どれにせよ極端だということだ。


翻って、ペットを飼ったことがある人間は、自分の家のペットに経験がある分だけ、他の動物を見てもそこには余裕がある。どんなにその動物がかわいくても、よく親しんだ比較対象(つまり自分のペット)があるから、根本的に接した時の「新鮮味」がない。初見の動物と接した時にも、その前にはっきりした「点」があるから、経験の「線」が引けてしまう(逆に考えると、未経験者は基準の点が長く残りづらいので、どんなに他の動物をかわいがっても、あくまで点の集合に過ぎなくなってしまう)。
言葉を変えれば、動物に接する経験に対して「軸」があると言ってもいい。軸があって且つぶれないから、どんなに愛らしい動物を目の前にしても簡単には動じないのだ。

社会人になって独立し、経済的、家庭的余裕ができて初めてペットを飼う人は、それまでに憧れがあったからこそ飼いたがるのだろう。憧憬ありきでペットを飼うから、ある意味でペットに対してビハインドを負っているわけだ。つまり、やはり「余裕」がない。その結果、溺愛するか、憧れ敗れてすぐに飽きるか。その極端な二択に陥りやすいのだと思う。

仮に、この人間がペットを飼ったまま子供ができた場合、子供のほうがよっぽど「余裕」のあるペットの付き合い方ができるだろう。それは初めから家庭の内にあるものだからだ。

例えば、一昔前、まだテレビが高級品だった時代には、ブラウン管の前に自作の緞帳を飾っていた家庭もあったという。もちろん今の感覚からすればそれはちゃんちゃらおかしい行為だろう。テレビはテレビじゃないか、ただの家電になにをそんな大仰なことをするのだと。

生物と無生物の違いはあれど、この例での心性に違いはたいしてないだろう。つまり異質なものに対する余裕だ。どんなに異質なものでも、それが最初からそこにあるものだという認識であれば日常の殻を破ることはない。


きっと、「みかん絵日記」や「動物のお医者さん」の楽しみ方も、ペット経験のある無しで大きく違うに違いない。

ちなみに我が家の場合では、犬を飼ってはいたが、俺が物心つく前に死んでしまったので、兄やあるいは姉まではペットに対して余裕があるかもしれないが、俺自身はどうにも危ういというちょっと珍しい状況となっている。兄や姉が動物に対してどんな反応をするのか、見たことはないが少し気になるところだ。
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by yamada-07 | 2008-02-21 14:08 | 雑記