by yamada-07
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キャラ

「キャラ」というものをとかく言い立てる人が、あまり好きではありません。
「あの人はそういうキャラなんだ」とか「そろそろキャラだしてこうかな」みたいなことをやたらに言う人が時たまいますが、なぜでしょう、不思議に拒否感を覚えてしまいます。

なんでかなー、ということをぼんやり考えていたですが、最近なんとなくピンときたことがあります。


なにがイヤかって、「キャラ」という言葉に限らないんですけど、ある人格を限定的、断定的に表現することに拒否感を覚えてしまうようです。

人の性質は場所、周囲の人間(関係)によって変わるし、逆に、同じ人に対する印象もその場に居合わせた人によっても差があります。同年代の友人が集まるサークルと、歳も出身も学校もばらばらなバイトと、教授に連れられていった学会とでまったく同じ振る舞いしかできない人は、むしろ社会不適合の烙印を押されかねません。当然その振る舞いの作法を(ある程度は)自覚的にコントロールする必要があります。

しかし、「キャラ」という言葉である誰かを表現することは、その人のある固有の状況における性質だけを切り取って、その人の全人格を規定してしまっているような感覚を受けるのです。

例えば「お調子者」という「キャラ」をつけられたある人が、何かに悩んで暗い顔をしています。そこへ「キャラ」をつけた人が言うことには、「キャラが違うね」、と。
キャラが違うんじゃありません、状況が違うんです。

個人の性質の発露が状況によって異なり、その印象も受け取り手によって異なる以上、その解釈の仕方は無限に存在し、かつ常に流動的、不確定的です。その場その場に応じて、その人への認識は微妙に修正されなければなりません。
そんな曖昧模糊としたものを「キャラ」という言葉で一義的に決めたくないし、決められたくありません。

確かに「キャラ」を定めてしまえば、知的負荷はずいぶんと軽くなります。誰かの認識を「キャラにあってるか、あってないか」の二択ですむのです。原理上、無限に切り口が変化しうる↑の認識方法とはえらい違いです。
でも、きめ細かいコミュニケーションを望むなら、その負担を減らそうと思っちゃいけないんじゃないかなー、と思います。


おそらく「キャラ」を使っている人に、負荷軽減だーなんだーといった自覚はないでしょう。もしかしたら私の解釈のド勘違いかもしれませんし。
それでも、私が「キャラ」という言葉をやたらと口にする人に対する淡い嫌悪感は現に存在しますし、そこに私なりに納得できる理屈をくっつけようと思ったら、この理屈が一番しっくりくるような気がします。

断定できないものを断定するってことが嫌いなんでしょうね。さもなきゃ他人の意見を押し付けられるのが嫌いかどっちかです。たぶん両方です。

山田でした。
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↓あいまいなのが好きって訳ではないと思います



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by yamada-07 | 2005-06-11 13:03 | 雑記