by yamada-07
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2005年 04月 17日 ( 1 )

カテゴライズ

古来より、人間はいろいろとカテゴリー分けをされてきまして。先人に倣って、不肖山田もしてみようと思います。

1.天性の資質をもっている人
2.天性の資質をもっていなくて、それに気づいていない人

天性の資質ってのもずいぶんあいまいな言葉ですが、周りから見て「おお~(驚嘆)」と思える才能、くらいでいいです。

1番。これをもってる人は少ないですね。まあ定義の仕方からしてそれは当然ですけど。私は音楽をやっているんですが、一緒にやっている周りのメンバーをみても「おー、こいつは天賦の才だな」なんて思える人は極々稀です。パーセンテージで言えばせいぜい5%ってとこでしょうか。もっと低いかもしれませんね。
2番。大多数だと思います。どんな類のものであれ、己自身をよく知ることはとても難しいものです。自分に才能があるかどうか、自分ですぐにわかる人なんてそうそういやしません。こちらの方が圧倒的に多いです。

で、ここから先が本題。ほとんどの人には天賦の才はない。これは紛れもない事実です。そうでなかったら、天賦の才なんていう言葉自体存在しないでしょうから。では、皆が皆、その天性のものがないということに気づかず、何らかの行為に取り組んでいるのでしょうか。否。そうではないと思います。ということで、第三のカテゴリー。

3.天性の資質をもっていなくて、でもそれに気づいている人

このような人たちも存在しています。この人たちは、己の才能のなさを引き受けた上で、自己の行為に対してかかわります。音楽にしてみれば、プレイヤーとしてではなくリスナーとしてのみ関わる、あるいは、才能がないという前提に立って、ならばどうすれば才能ある人のようなプレイができるかと問いかけながら演奏する。

分野は違いますが、ルネッサンス期の芸術家ヴェロッキオは、弟子ダ・ヴィンチに追い抜かれたと悟った瞬間、筆を折ったといわれています。これは前者に当てはまるものでしょう。

閑話休題。では、2と3を区別するものはなにか、いかに人は自分の限界を知れるのか、ということですが、これは、「どのくらい自分の行為に対して、自分の責任において自己を没入させられるか」だと思います。
……ちょっとまわりくどいですね。もっとわかりやすく言いましょう。つまり、自分がしていることに言い訳がいらないか、ということです。手段のためでなく、目的として行為ができているかです。
なにか言い訳を用意してその行為に臨むと言うことは、自分で納得がいかなくても、最終的なところで自前の理屈のせいにできてしまいます。曰く、「課題が忙しくて」。曰く、「練習する時間がなくて」。曰く、「就活があって」……。だから、自分に才能があるかどうかという、非常にラジカルな部分の問いかけがなされることはありません。
自分の心理にファイアーウォールを作っておけば、傷つくことは少なくなります。そりゃそうですよね。誰だっていやですよ、自分は才能がないなんて思い知らされるのは。「今は時間がないから練習できないけど、練習さえできればきっと上手くなれる」。そう思ってるほうが気も楽です。
しかし、そのような前提、というか言い訳が先立っている行為には、必ず越えられない壁があります。当然でしょう。なにしろ自分の悪いところをそれのせいにできるのですから、反省と言うものをしようがありません。自分の失敗という先々のための貴重な材料から、みすみす目をそらしてしまうのです。ちょっともったいない話ですね。

あ、もちろん上記の1.2.3.、いずれに属しているからと言って、その人が人間的にどうこうというものではありません。あくまで任意のひとつの行為に対するカテゴライズですし、他の行為を考えてみれば、才能の有無について有自覚的にしているものがきっとあります。今回は私の身近な例として、音楽を挙げましたけど。そのカテゴライズ自体誰が権威もって行えるのかって話しだし、そもそもカテゴライズなんて、情報整理、概念整理の一手法ですしね。


ま、だーっと書いてきましたが、このような、自己に対する自省的、自覚的な態度というのは、私の考える「知性」というものにリンクするところがあります。それについてはまた別の機会で。

こうして語っている私には、音楽面での才能はないようです、ええ、非常に残念ながら。それでも音楽好きなもんで、院試の勉強をほっぽって日々練習してます。そんな私が、いつか勉強ができないことを音楽のせいにしやしないかちょっと心配です。山田でした。
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by yamada-07 | 2005-04-17 00:55 | 雑記