by yamada-07
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2006年 02月 12日 ( 1 )

世界の分節線

バイトから帰る電車内でのこと、少々アルコールが入っているのか、話し声の大きい男性二人組がいました。見た感じからして、まあなんて言うか、世のおじ様方が世相を嘆く時に使う「最近の若者」を体現しているような、軽薄さが体臭として臭い立ちそうな、顔面に「世の中なめてます」と書いているような、そんな感じの二人組でした。とはいっても、私の予断と偏見が入り混じった感想なので、話十分の九くらいの想像でとどめておいてください。
ともあれ、その二人が電車内にも関わらずでかい声でしゃべっている最中に聞こえてきた単語、「マジウゼー」。この単語を聞いた瞬間に、前述した彼らに対する偏見が確立されたといっても過言ではないでしょう。
「マジ」と「ウゼー」のたった二単語の複合のみによる発話。どちらの言葉も日常会話のボキャブラリーのストックには常備されていますが、その組み合わせによりここまで破壊力のある発話が構成されようとは。

世界は言葉によって分節化されている、というソシュールの知見は何度もひいていますが、今回もそれに合致しうる状況といえるでしょう。
この発話を行った彼にしてみれば、会話の流れの中で想定されたある状況に対する印象が、「マジウゼー」という言葉で表現されうるものだったのでしょう。その言語が想起された瞬間、その会話の中の世界は彼にとって「マジウゼー」ものとして切り分けれられたのです。「マジウゼー」というほとんど脊椎反射で口に出されるような言葉で世界を切り取るようなことは、その世界の多義性、色彩、可変性をばっさり切り捨て、極めて単純単調な一義に回収してしまうようなものです。「ウゼー」などという言葉は、拒否、拒絶、排除の言葉ですからね。もはやそこに新たな世界の胚胎はありません。語彙の差(量的なものでも質的なものでも)は、そのまま世界認識の差に直結していると思います。言語の違いによる質的な語彙のカテゴリーの差を同次元に無理矢理組み込んで良し悪しを論ずることに意味はありませんが、同一言語内での語彙の量の差は、認識の上でそれなりに有意な差になってくるのではないでしょうか。喩えるなら、8ビットのファミコンと64ビットのNINTENDO64の差です。マリオの顔のディティールの差は一目瞭然旗幟鮮明、火を見るより明らかとはこのことでしょう。

「マジウゼー」が日常会話の中でぽんと軽く提出されるような言語世界では、おそらくたいがいのものが「マジウゼー」ものになっていることでしょう。そんな「マジウゼー」もので横溢する世界(使っている当の本人には自覚のないことでしょうが)で暮らす人の目に世界がどのように映っているのかは知る由もありませんが、できればそのまま知らずに過ごして生きたいものです。
こうして、今現在の「私的・輝け☆低脳を露呈する言葉大賞」の第一位に「マジウゼー」がランクインしました。今後どのような言葉と熾烈な争いを繰り広げるのか、巻き込まれることのない彼方から見物したいと思います。
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by yamada-07 | 2006-02-12 01:44 | 雑記