by yamada-07
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カテゴリ:雑記( 87 )

あの鐘を鳴らすのは誰だ

これができていると「女子力」が高いと思うことランキング(gooランキング)

おそらく回答者の母集団が若い女性であろうことから考えるに、非常に興味深い結果だ。

根本的に「女子力ってなんだよ」という問いをすっ飛ばしてなされているアンケートだが、その回答の大半が対他的なものでなく、対自的なものであるというのが、定義のない「女子力」というものを逆説的に定義づけているのかもしれない。

回答を抽象的に考えると、「女子力」とは、能力・技術ではなく、圧倒的に見てくれに対しての気配りであるようだ。早い話が、外面についてのこまごまとした注意点なのだろう。

能力・技術などではなく、見てくれのみに焦点をあてるなど、一昔前ならフェミニズム原理主義者たちが頭から湯気を出して怒りそうなものだが、とんとそういう反応を聞かない。
むしろ、そんなかつてのフェミニズム論者たちが、今現在幸せそうに見えないという事実こそが、このような方向性を加速付けていると思う。
誰の力も借りずに、ただ己の力量のみで世間を渡っていくというのは、よっぽど力のある人間でも大変だろうから、青息吐息の未婚30代、酒井順子言うところの「負け組」を見ている若い子達は、そりゃあ後に続きたいとは思わないだろう。

この結果、というよりは、このような概念の顕在化は、一般的な女子が幸せになるなら、能力・技術よりは見てくれに気を遣ったほうがより合理的である、という思考の帰結なんじゃなかろうか。
そして、それが当の若い女性から出てきているというのは、なによりも興味深いのだ。

なるほど、フェミニズムの弔鐘はもうきこえつつあるのかもしれない。
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by yamada-07 | 2008-07-31 20:50 | 雑記

少年誌盛衰

「昔はよかったね」とはいつの時代も言われる台詞ですが、今のジャンプに関しては確かにその通りではないかと思います。

巷でもよく言われることですが、昔のジャンプは掲載されている漫画に幅がありました。
私が本誌を読んでいた頃はいわゆるジャンプ黄金期で、「ドラゴンボール」、「スラムダンク」、「幽々白書」らが三本柱として屋台骨を支えていました。発行部数が600万部を越えたことの主要因はこの三作品だといっても過言ではないでしょう。

ですが、その脇を固めていた佳作たちの存在を忘れてはいけません。メインターゲットである子供たちのハートは確かにその三作品ががっちりキャッチしていましたが、当時はスーツを着ているいい歳した大人もジャンプを読んでいたものです。個人的には、いい大人が公共性の高い場所で漫画を読むのはいかがなことかと思っているクチですが、それはともかくとしても、老若男女を問わずにジャンプが読まれていたのは、三作品の力のみではないと思います。

Wikiを見れば当時の連載作品が載っていますが(1990年代前半連載開始作品)、「花の慶次 ―雲のかなたに―」、「瑪羅門の家族」、「ボンボン坂高校演劇部」(ちなみに私は、「部活物の漫画といえば?」という問いにまず思いついたのが「ボン坂」だった人間です)、「究極!!変態仮面」、「モンモンモン」、「珍遊記 -太郎と愉快な仲間たち-」、「こもれ陽の下で…」、「D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜」、「王様はロバ〜はったり帝国の逆襲〜」、さらにはその前からの連載である「ジョジョの奇妙な冒険」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」など、男女はともかく老若に関しては幅広く受け入れられるような連載陣が揃っていたのです。

原哲夫先生や宮下あきらせんせいなどの劇画タッチがジャンプで連載していたなんて、平成生まれの人間にはにわかに信じがたいことかと思います。
そう、今の連載陣はかつてに比べて絵やストーリーの傾向がかなり似通っていると思うんですよ。
ざっくり言えば、どれもこれも非常に「かわいい」絵ですよね。より具体的に言えば、どの漫画のキャラもみな眼が大きいんです。

眼の大きさは、端的にかわいらしさの象徴です。少女漫画を見ればそれは一目瞭然で、「かわいいが正義」が錦の御旗として翩翻と翻っている「ちゃお」などは、もはや顔の半分が眼という畸形種が表紙を飾っていたりします。
かわいさを求める風潮が少年(男性)誌の領域にまで流入してきた結果、キャラの眼の巨大化です。

かわいさを求める、と書きましたが、それはとりもなおさず、内容以上にキャラの容姿に主眼が置かれるようになったということを意味します。それを今風の言葉で言えば、「萌え」ってことですが、その中身とは、(ポストモダンを気取りたがる人の言葉で言えば)キャラの効率的な消費です。とっつきやすいものをとっつきやすく作ってとっつきやすいままに市場に出し、それが飽きられる前に次なるとっつきやすいものをまた出す。その循環が「萌え」産業の構造であり、マクロな視点で持ってみれば、資本主義、グローバリズムの一つの必然なのです。

そのような漫画でジャンプが埋め尽くされているからといって、そうでない漫画が漫画界から駆逐されたかといえばそうではありません。ヤングジャンプ、ビジネスジャンプ、スーパージャンプなどのより年齢層の高い雑誌に、非「萌え」漫画は移っていったのです。
その最たる例が、少年ジャンプで連載していながらも現在はスーパージャンプで連載している荒木先生でしょう。かつてのテイストでは現在のジャンプの毛色とは余りにもかけ離れ、本人の希望か編集部の意向かはわかりませんが、めでたく移籍しての連載となりました。

それと真逆であるのが「こち亀」でしょう。ま、すでに30年を越える超長期連載ですから、途中でいくらかの路線変更があるのはある種の必然ではありますが、「こち亀」は時代時代の流行(メイン、サブを問わず)を貪欲に取り入れその存在を保っています。現在の「こち亀」も、今のジャンプの風潮を受け入れ、それに沿った絵柄、ストーリー展開になっています。これは融通無碍というべきか、プリンシプルの欠如というべきか判断に迷うところではありますが、プロの姿ではあります(個人的には50~80巻あたりが一番好きなんですけどね。絵の書き込みと、話のはちゃめちゃさと、人情話のバランスには、今読んでも腹を抱えながらもほろりとさせられます)。

雑誌が目指す読者層のために、あるものは出て行き、あるものは残り、作家の取捨選択を経て作られているのが今のジャンプです。かつてのジャンプにはあった掲載漫画のグラデーションは今では殆どなくなってしまいました。その差は、日本の虹とシベリアのある部族のそれとの差どころではないでしょう。

ただでさえ少子化云々言われているところで、読者層を絞れば発行部数が落ちるのは必然です。
かつての黄金期からの凋落は、相次いで連載を終了した「ドラゴンボール」と「スラムダンク」に因るところが大きいようですが、なんとかその歯止めをかけようとした編集部の思惑は、それ以降の連載開始作品、デビュー作家の顔ぶれを見ればなんとなくつかめます。明らかにその絵柄は、現在の状況に通じる「かわいい」ものばかりで(「ワンピース」、「封神演義」、「HUNTER×HUNTER」などが看板作品となって、それ以外のギャグメインや、かわいげに欠ける絵柄の作品は長期連載になることなく連載を終えています)、森田まさのり先生の「ROOKIES」がほぼ唯一の例外といっていいでしょう。
つまり、三本柱の終了で離れていった(と編集部が考えた)子供(誤解を恐れずに言えば、女子供)をなんとか連れ戻そうという考えの下で、当時の連載開始作品は方向性が付けられ、連載中の作品でさえテコ入れの憂き目に遭ったりしています。そして、それが激化したために、掲載作品は一様に「かわいい」絵柄になってしまったのです。二匹目の泥鰌を追いすぎた編集部の勇み足、といったところでしょうか。

ジャンプに限らず、少年誌はどこも「かわいい」絵柄の漫画に埋め尽くされかけています(例外として、勇猛果敢なチャンピオンがいますが)。それは結局は、縮小し続けているマーケット内で顧客の獲得に躍起になっているという状況になってしまっています。
厳密なゼロサムゲームではないので、顧客の重複は十分にありえる話ですが、それはどちらかといえば経済力に余裕のある大人にこそ言えるものです。各誌とも、発行部数の増加を目論むなら、掲載漫画の年齢層の幅の拡張をすべきではないでしょうか。


世の中が みんな黄色というのなら あほうになって 白を買うべし


最後の相場師・是川銀蔵の名言で以って、論の結びとしたいと思います。






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by yamada-07 | 2008-07-17 20:49 | 雑記

笑いの暴力性

「笑い」とは、根本的に誰かを、何かを傷つけるものであると思います。

典型的に、テレビや舞台で見るお笑いの漫才やコントなどは、仮想的に作られた「傷つけられるべき人格」がボケをして、「傷つけるべき人格」がツッコミをします。
ボケはまず何かツッコマれるようなこと(常識の埒から外れるような行為、言動)をして、そこでツッコミがボケを否定(その非常識さの指摘)することで、ウケがとれる。それが基本的なお笑いの構造です。ツッコミ不在のシュール系のものもありますが(ラーメンズなどがその代表でしょうか)、それらもこのような基本路線を踏まえたうえでの踏み外しであるはずです。

これは一般人レベルでも、事情はそう違いません。
普通の人間は日常会話のためにネタあわせなどしませんから、その場で起きる笑いは偶発的なものとなります。この「偶発的」は、場全体の流れからの意味であり、笑いを実際に起こしたもの(多くは何かにツッコミをいれたもの)にとっては、反射的と言うべきものとなります。なにかボケが転がっていたから、すかさずそれをツッコんだ、ということです。これは、相当程度のネタあわせをしている、職業としてのお笑いとは一線を画す点です。
稀に、ツッコミがないまま笑いが起きるということが日常会話でありますが、それは、そのボケがそもそもツッコミを必要としないほどに常識から乖離していると考えられます。ツッコミという明示的な指摘がなくとも、その場の人間がほぼ同一の観念で以って非常識さを感じられる状況。それがツッコミ不在の笑いです。

ツッコミは、前述したように「非常識さの指摘」です。ときにそれは比喩の形をかりて行われ(タカandトシの「欧米か」のように)ますが、そのように非常識な行為を明言することで、ボケを聞いた人間に一定の解釈の道筋を作るのです。
ボケを聞いただけでは、それに対応できない聴衆は、単にその非常識さにそれぞれの漠とした違和感を覚えるだけですが、明言されたツッコミを聞くことで、そのボケの非常識さに共通の解釈が得られるのです。


ボケとツッコミによる笑いのセットは、ツッコミによって一つの流れにオチをつけるわけですが、そこで起こる笑いには二種類あります。つまり、ツッコミがうけたのか、ボケがうけたのか、です。

前者の場合、往々にしてボケは意図せず発露しています。ボケた本人はボケたつもりがないのだけれど、その場の常識に照らし合わせてみると非常識に映ってしまう。そのような時にツッコミを入れると、不意に訪れた意図せざるボケに対して皆が抱いた違和感に、ツッコミが上手く解釈の道を与えてくれるので、ツッコミが評価されるのです。つまり、突っ込んだ人が面白いのだと認識されます(このような意図せざるボケを重ねる人のことは、「天然」などと評されます)。
このときツッコミは、生身のその人間にむかってなされています。意図せずしてボケた人間のボケは、当人にとっては当たり前の行為であり、何で笑われるかが解っていません。ですが、なぜ笑われるかが解っていないにもかかわらず、確かにその行為の主人格はボケた人間であり、ツッコミの対象、つまり、ツッコミが傷つけたのは、そのボケた人間の生身の人格なのです。
それでも、笑われた人間がそのボケに無自覚であれば、ツッコミによって付けられた傷に気づきはしないのです。というか、自分が傷つけられたとは思っていないと言う方が近いのでしょう。
他の人間が自分を笑っている(傷つけている)ようだけど、何で笑われたか(どこを傷付けられたか)よくわからない。
当人としてはこのような感覚なのではないでしょうか。
これはその人間が痛みを感じないのではなく、痛みを感じるポイントが他の人間と異なっているのだと思います。


対して後者の場合、ボケは意図的に発されたものである場合が多いのではないかと思います。
それはつまり、職業的なお笑いの場であるということですが、一般人の世界でも面白いことを言おうとする人は、その成果は置いておいても、少なからずいるはずです。
そのような人間の目論見がダダ滑った時、それは殆どの場合は、そもそもそのボケが面白くないことに起因しますが、ごく稀には、ボケそのものの完成度が高いにもかかわらず、聴衆の解釈が届かないばかりに流されてしまう悲しい事態も起こりうります。つまり、ツッコミの不在による解釈の不一致です。
幸運にも、高度なボケを発した場に高度なツッコミの能力を有する人間がいると、その聴衆の瞬発的な解釈力がボケに釣り合っていなくとも、ツッコミの示した方向性により、ボケの解釈が容易になるのです。

そして、その場合の評価はボケに対して向けられることとなります。聴衆は、ボケの違和感に不理解を抱えてしまう一瞬の思考の空白に、ふっと聞こえるツッコミの解釈でもって、そのボケを理解できるのです。
ツッコミは、ある意味で一時的に聴衆と同じ立ち位置となります。つまり、ボケを解釈する立場に置かれるのは、ボケが発された瞬間では聴衆もツッコミも変わらないのです。
しかもそれが日常会話の場では、その位置関係はより同列におかれます。ですから、ボケに対してツッコミがなされた瞬間のツッコミの立場は、同輩中の主席と言えるのです。同じ次元ではあっても自分より上位にいる(ように見える)人間。それが日常会話の中のツッコミです。
そのようなツッコミに評価を送ることは、裏返せば、自分の解釈能力がツッコミに劣後していることに同意することであり、そのような悔しい感情に陥るぐらいなら、ツッコミの存在を意識せずに、ボケの人間の高度さを賞賛したほうが、自らの精神衛生にとっては有効である。
そのような思考が無意識のうちに聴衆に起こることはそれほど不思議ではないと思います。特に、自身の解釈能力に過剰な自負があり、またツッコミに対して対抗心がある場合は。

ま、それは穿ちすぎかもしれませんが、笑いはボケの解釈に成功して初めて起こるものなので、笑ったときにまず念頭にあるのは、ツッコミという解釈(の方向性)単体ではなく、解釈とセットになったボケであるはずですから、笑いの評価をボケが持っていくことになるのはごく自然であるといえます。

さて、このときのツッコミは、職業的なお笑いと同様、仮想的に構築されたボケ人格に向かってなされています。ボケた側は突っ込まれることに自覚的ですが(むしろ突っ込まれることを待ち望むわけですが)、そのツッコミが向かう先は仮想人格であり、生身の人格には傷一つ付けられていません(それは、ボケが「ボケ」であるという了解がその場で得られれば、という留保がつきますが)。ゆえに、いくらツッコミによって傷を付けられても、ボケている本人(自覚的にボケた人間)は痛痒さえ感じないのです。


さてさて、ではこのような幸運な場が出来上がっているとしましょう。高度なボケの人間と、高度なツッコミの人間。プラスするところの聴衆。ボケがどんなに無茶振りをしても、すぐさま突っ込んで解釈のよすがを与えてくれるツッコミ。それでうける聴衆。和気藹々とした楽しい空間です。
ですが、このときボケ側が話に出た何か、あるいは自分自身ではなく、その場の人間を直接的に傷つけるようなボケをしたとしたらどうでしょう。その場の人間の(意図するとしまいと)言動を指摘して笑いに変えようとした状況です。
もしツッコミが何も言わなければ、それはもしかしたらただの誹謗中傷で終わってしまうかもしれません。ただのちょっとした言い間違えや勘違いに過ぎないものをあえて論うことで笑いを取ろうとしても、それがボケとしてどれだけ高度で、あるいは面白かろうとも、聴衆の解釈が追いつかなければ、ただの粘着質な発言、で終わってしまいます。ですが、ここでツッコミがその解釈をその人間ではなく他の何か(現実にあるがこの場には関係ないものであれ、仮想的にしつらえた架空のものであれ)に向ければ、そのボケはその場の誰かを傷つけることなく笑いで以ってオチを付けられるわけです。

ではさらに状況を捻ってみましょう。
ボケが、ツッコミの言動を拾ってボケとしたらどうか。
ツッコミのできることは二通りです。解釈を他に逸らすか、自ら受け止めるか。
楽なほうは明らかに後者です。元々自身に関することを拾われたのだから、その言動が自覚的ではなかったとしても、後から気づくのは容易です。気づいた後に、素直に自分に突っ込むか、新たに解釈の矛先を作ったうえで解釈の道を示すか、どちらが簡単かは明らかでしょう。
日常会話でそんなボケをやられれば、よっぽど高度なツッコミ能力(それはもはや、本職以上の能力と言っても過言ではないでしょう)を有していない限り、ボケとツッコミで何よりも大事なテンポを優先するために、自分自身に向けてツッコミを行う羽目になります。

これで笑いが取れれば、場としては恙無くオチを向かえたと言っていいでしょう。
ですが、ツッコミの内心としては、それは素直に喜べることではないでしょう。
なにしろ、自分自身をツッコミの対象としたということは、自分自身を傷つけたということに他ならないのですから。
前出した「意図しないボケ」の場合では、突っ込まれた人間は傷ついたとは思わない、と書きました。それは、自らのボケに無自覚であるからです。生身の人格に傷を付けられたにもかかわらず、傷の感じ方が異なるために、傷を傷として認識しないのです。
ですが、この場合、ツッコミが自分自身を対象とするということは、ツッコミが自分自身の意図していなかったボケに自覚的にならざるを得ないのです。つまり、生身の人格に付けられる傷を認識できる、認識せざるを得ないということになります。

言ってみれば、このときのツッコミは我が身を削ってボケを成立させているわけです。
比喩的に言えば、ボケはナイフを突き刺す箇所にマーキングすることで、ツッコミは実際にナイフを突き刺す行為となります。ボケはツッコミの身体に丸を描いて、ツッコミは自ら身体にナイフを突き立てるのです。

勿論自らナイフを突き立てるということは、不意に刺されるのではない以上、それなりの覚悟は出来ます。
「覚悟があればどんな痛みにだって耐えられる」と言ったのは、「グラップラー刃牙」の猪狩完至だったでしょうか。それにしたって、「痛みに耐えられる」は「痛くない」とイコールではありませんし、「傷ついていない」とイコールでもありません。痛くなさそうなのはそうやせ我慢しているだけで、流れる血は見えないようにしているに過ぎないのです。いくら流血を隠しても、それが積もり積もれば出血多量でお陀仏にだってなりうるのです。


笑いというのは、それがもたらす肯定的な結果の印象からは程遠い、かなり暴力的なものであると思います。
笑いの影には、傷つけられている何か、誰かがある。それが架空のもの、仮想的なものであるならいいけれど、実際にその場にいる人間の生身の人格である場合に、笑いがその流血を隠蔽して、付けられた傷に他の人間が気づかないこともありえます。
とはいえ、笑っている真っ最中にそんなことに気を回す必要はありません。それはボケを潰す行為であり、同時に身を削った何か、誰かの痛みを無為にすることとなってしまうからです。
大事なのは、ボケる側こそが、「もしかしたらこれは、誰かに必要以上の傷を強いてしまうボケなのではないか」という配慮をすることです。
笑って終われば全て丸く収まるといえるほど、人間の心は簡単に出来ていません。人の心は、プラスとマイナスが単純に相殺できるようにはなっていないのです。

笑いの暴力性。笑うことは常に何かを傷つけているというのだということを、ふとしたときに考えてみてもいいかもしれません。





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by yamada-07 | 2008-07-14 22:46 | 雑記
リア充の定義について考えるスレ

「リア充」って何者なんだ?と最近思っていたところでこんなまとめが。というわけで、「リア充」について少し考えてみたいと思います。

まずは前提。
「リア充」とは「リアル(現実世界)が充実している人」の略。これは動かしようのない当為のものです。
そこからさらに定義云々という議論が発生するのは、「ではリアルの充実とは何を指すのか?」という点に共通理解を得られていないからです。

スレの意見を見てみると、そのほとんどが外形的な属性について言及しています。
曰く、恋人がいる。
曰く、友達がいる。
曰く、イケメンである。
曰く、社交的である。
曰く、休日がプライベートの予定で埋まっている。
なるほど、このような属性を全て備えている人がいれば、その人はリア充といわれるかもしれません。

ではここで一つの例をあげてみましょう。
ある24歳の男性。眼光の鋭い痩身のいい男。某難関国立をストレートで入学、卒業。同法科大学院入学、卒業。
新司法試験を受験し、現在結果待ち(そのため、社会的地位はニート)。付き合って数年経つ彼女もいて、友人にも恵まれている。
さあ、このような人間が目の前にいたら、あなたはその人をリア充と呼ぶでしょうか。

実はこの男性、私の現実の友人だったりしますが、彼をリア充と呼ぶ人間はおそらく一人もいません。彼が身に纏う空気には、彼をリア充と呼ぶことを思いもよらせないのです。

他にも高学歴であったり彼女持ちであったり、上の属性を満たすような友人はいますが(イケメンはあまりいないかも)、いずれもリア充かと問われると首を傾げざるを得ないような人間ばかりです。
勿論上記の属性を満たした上でリア充といえるような友人もいるので、単純に私がリア充に対する鼻が鈍いというわけではないと思います。
鈍いのではなく、そもそも狂っているという可能性も否定できませんが、外形的には同系統の属性を持っている人間たちにも、リア充っぽいかぽくないかと区別している以上、やはり単に外形的な属性以外にリア充か否かを差別化しているものがあると思うのです。

ではそれはなにか。
スレの一番最後に書かれている

154 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[] 投稿日:2008/05/04(日) 00:35:57.52 ID:39u2jRQK0
つまり周りから今を楽しくいきてるように見えりゃリア充だろ?

これがかなりいい線を突いているんですが、それをさらに敷衍して、「周りに自分の人生の楽しさを吹聴している人」というのが、私はリア充の定義だと思います。

外形的な指標、つまり、高給取りだとか、高学歴だとか、恋人がいるとか、プライベートが忙しいとか、そのようなものの高低はリア充かどうかについては関係なく、それについて自分がどう受け取り、さらに外界に向けてどうアピールしているかが問題なのだと思うのです。

かといって、外形的な指標が完全に蔑ろにされるのかというと、そうでもない。
例えば、イケメンで美人の彼女持ち、高学歴の25歳。彼女の惚気をやたらとしたり、趣味のサーフィンでは人気者で、職場でもその話題についてよく喋る。で、その職場はコンビニのアルバイト、という場合、彼をリア充と呼ぶのは難しい気がします。
この時彼をリア充と呼ぶことを難しくしているのは、「コンビニのアルバイト=フリーター」という職業面での指標です。いくら彼が自分の人生の楽しさを言い立てても、それを聞く人間、特に一流企業の正社員に就いていたりするなど、社会的指標が高いとされている人間(もしくは、相対的に彼より高いとされている人間)にとっては、「でもフリーターだしなぁ……」というある種相手を下に見るような気持ちで以って、彼をリア充と呼ぶことを避けてしまうと思うのです。

とすると、ここで新たな仮説が生まれます。
リア充という呼称は、社会的指標が自分と同格以上の人間にのみ使っているのではないか。

この場合の社会的指標とは、学歴や職(社会人になると、学歴以上に職歴が重視されますが)などオフィシャルな性格を持つものであり、容貌や恋人の有無などのプライベートな性格を持つ指標と対になるものです。

そもそもリア充という言葉は、2chなどで自分たちの仮想敵に対して使われた侮蔑的なニュアンスを含むものであり、その侮蔑は、自分にはないものを持っている人間を羨ましがる、いわばルサンチマン的な性格のものです。
そのため、この言葉を使うのは、社会的に上の立場と認識される人間が目下のものを馬鹿にするためではなく、「すっぱいブドウ」のキツネのように、「どうせあいつらは俺たちみたいな人間のことも知らず、視野の狭い世界で生きるんだ」というように、対象を貶めたふりをして自分を安心させるために使うのです。

ここで、また例を挙げてみましょう。
顔は十人並み。性格や人当たりがいいので友人は多いが、恋人には恵まれない。いわゆる有名大学ではないが一流企業に就職。趣味のバンドはそれなりに好評で、職場や学生時代の友人たちもよく来てくれる。
さあ、この彼はリア充と呼べるでしょうか。
これはかなり意見が分かれるところだと思います。
「性格がいい」ということで、自分の人生の充実具合をおおっぴらに言い立てる人間ではないということになり、そうすると上の定義からリア充ではないということになってしまいますが、そこには目をつぶってみると、判断に迷うところではないでしょうか。
その迷いのもとは、恋人がいないという指標と、一流企業社員という指標の拮抗でしょう。つまり、私的な指標と公的な指標の拮抗です。
前述のフリーターの彼の例では、多くの肯定的な私的指標と、フリーターという唯一の否定的な公的指標が対峙したわけですが、そこではわりとすんなり公的指標の負の側面が勝ちました。
今回は十人並みの容貌、恋人なしという負の私的指標、多い友達、好評な趣味という正の私的指標、一流企業社員という正の公的指標(学歴は正も負もない一般的なレベルとしましょうか)ということで、フリーターの例に比べて数的な差は少ないにもかかわらず、結論に差が出るのです。

ということでまとめてみると、「リア充とは、自分の人生の楽しさを吹聴する、社会的に高い指標を有する者」と言えるのではないでしょうか。
そのような人間に対して、相対的に社会的指標の劣る者が、私的な指標の優劣にああだこうだ言っているのだと思います。


んで、ここまで述べてきてなんですが、私としては、社会的指標にしろ私的指標にしろ、それに優劣を論じるのはあまり品のいいことだとは思っていませんし、また優れた指標を持っていると思っている人間がそれを吹聴することも、良識ある行為だとは思いません。
指標とはつまるところタグであり、外形的に確認できる解りやすいものでしかなく、抽象的な単純な説明にすぎないものです。タグはあくまで目安であり、そのタグが付けられていても、実際にその人間がどんな人間かが説明されているわけではありません。タグをいくら積み重ねたところで、それで人間が出来るわけではないのです。タグで多少は人間性の見当がつくことは否めませんが、それは本当に目安以下のものでしかなく、ともすればただのステレオタイプの丸呑みになってしまう危険性もあります。

なので、リア充である、つまり、(社会的指標はおいといても)自分の生活をことさらに吹聴する人間が好ましいとも思いませんが、リア充であることに難癖をつける、つまり、指標で以ってのみ他人にあーだこーだ言う人間がいいとも思いません。

根本的には、このような言葉が作り上げられてしまった社会の土壌にこそ、今の日本の問題の根っこがあるような気がしてなりません。







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by yamada-07 | 2008-07-01 22:44 | 雑記
内田樹氏は、語彙の貧困は情感の貧困につながるとおっしゃっている。

昨今のメディアは、発信する情報の中に含まれている語彙のボーダーラインを、情報の受け手のリテラシーの最低ラインを照準して設定している。

「語彙」は「語い」に。
「範疇」は「範ちゅう」に。
「瀰漫」は「び漫」に。

「び漫」では「瀰漫」のもついやらしさ、思わず顔を顰めるような瘴気の如きニュアンスは感じ取れない。そうなれば、単純に辞書的な意味合いのみでもって「び漫」から「蔓延」や「波及」、「一般化」などの言葉に言い換えられてしまうだろう。

今日はニュースのテロップで「復しゅう」(復讐)と書かれた単語を見て、妙に白けた印象を受けてしまった。「復しゅう」では、「復讐」の持つ禍々しさ、ぎらつく力のニュアンスが届いてこない。

漢字は表意文字(あるいは表語文字)で、ひらがな・カタカナは表意文字。一文字が持つ意味の密度はまるで違う。それを語彙のボーダーを下げ「讐」を「しゅう」と表記しては、元々「復讐」にあった諸々のニュアンスがすっかり抜け落ちてしまう。「復讐」と「報復」と「仕返し」では、意味は似通っていても語の持つニュアンスは大きく違うのだ。

わかりやすい情報と、内容の薄い情報は違う。今のメディアの語彙の選択は、受け手への配慮というお題目の元で、情報の密度を薄めているようにしか思えない。

新聞やテレビ、ラジオや雑誌。かつてのメディアはその立場にもっと誇りを持っていたような気がする。情報を発信する立場、知識人としての立場ゆえの気概とでも言おうか、そのような態度があったと思う。
だが、現在の日本(海外の事例はわからないので)のメディアは、受け手に媚びた上で尊大な態度を取っているように感じられる。尊大というか、より有り体に言って見下した態度だ。媚びているのに。


話が逸れるが、企業が大きくなればなるほど、資本主義が企業全体にあまねく染み渡り、成員の目的が「利潤の追求」に先鋭化していく。
企業が利潤を追求するのは当然だ。利潤を追求しない企業なぞ存在しない。その前提は疑いようが無い。利潤を追求してこその企業だ。
だが、その成員までもが利潤の追求のみを目的にするのはいかがなものだろうか。

企業は法人格をもってはいるが、現実の人間ではない。そして企業自身が相手にするのも、たいていの場合、同じく法人格としての企業であり、それが個人であっても、屋号を持つ商人、商人格である場合がほとんどだ。
だが、実際に商行為を現場で行うのは生身の人間である。インターネットや電話、FAXなどを使い、直接対面することがなくとも、コミュニケーションをとっているのは人間同士である。

企業の活動主体たる自然人にまで資本主義が過剰に浸透すると、自然人同士のコミュニケートに雑味が混じる。いざ自然人同士が交渉をしても、相手を直接見ずに、相手の向こうに透けて見えるお金の額を見てしまうからだ。

本質的にお金そのものには価値がなく、「お金は同額の商品と交換可能である」という信憑が定着して初めてお金に価値が出来るのである。
だから、お金そのものを目的とすることは無意味なことだと言っていい。お金はなにかと交換して初めて価値が発生する。退蔵しているだけのお金はただの金属か紙切れで、預金残高も二進法のデジタル情報でしかない。
お金は欲望充足の手段であり、欲望の目的そのものにはなるべきではなく、同時に自然人の経済活動の最大(というか唯一)の目的となるべきではないのだ。


ここで話がメディアの態度に戻る。
メディアの情報も、それを発する主体としてはテレビ局であり、新聞社であり、出版社であり、ラジオ局かもしれないが、実際に情報を集め、編集し、構成し、発信するのは自然人だ。
そのとき自然人に資本主義が過剰に浸透していると、まずなにより売り上げが第一目標になってしまう。長期的なスパンではなく、短期的に最大の売り上げを目論んでしまうのだ。

するとどうなるか。

物を多く売るには、買い手の母数が多いほうがいい。この場合情報の受け手と同義だが、情報の受け手の母数を増やすには、情報の難易度を低く設定し、リテラシーの最低ラインを照準することで、母数が最大となる。
メディアからの情報の難易度が低くなれば、リテラシーの水準も上がりようが無い。少なくとも、メディアからの情報で上がることは無い。こうして負のスパイラルに飲み込まれて、リテラシー水準は低下の一途を辿っていく。

こうして受け手側の一番下を狙って媚びた態度をとる一方で、送り手としての傲慢な態度(リテラシーの低さを見下す態度)もとる。後者は、昔ながらのメディアの矜持の残骸だといってもいいと思う。情報、そして受け手への誠実さの欠如でもあるのだ。

リテラシー、あるいは受け手の情報の密度を色分けすると、現在はおそらく、上部に少ない割合で濃い情報密度が集中し、ある程度以下には薄い情報が広がっているように思える。
これは情報の量的な問題ではない。むしろ量的には、全体が同程度に浴びるような薄い情報を受けているはずだ。そのような薄い情報へのアクセスは、ボーダーを下げたテレビに新聞、最近でネットもあって、非常に楽になっている。
だが、質の高い情報を得ることが難しくなっているのだ。
質の高い情報へのアクセスまでなら、やはり一昔前に比べればずいぶん楽になった。だが、そこから先、アクセスした先の情報を理解することが、相対的に難しくなっている。情報の質が高くなったのではなく、受け手のリテラシーが下がったからであり、それの要因の一つが、語彙の貧困化なのだ。

こうして負のスパイラルがさらに高次のスパイラルを誘発して、際限の無い知性の貧困化、そして、知性の二極化を招いていく。

もはや実情は大きく異なっているが、幻想として、「メディアに携わっている人間は知的である」というものが残っていると思う。
その賞味期限ももうぎりぎり、というか偽装した上で騙し騙し使っている気もするが、それでもまだしぶとくあるはずだ。
そういう幻想に憧れてメディア世界に飛び込む人間が一定数いれば、そのような幻想は再生産されるのだが(これもまた負のスパイラルだ)、その幻想に甘んじているだけの人間が発した情報こそが、今まで述べてきたような情報になるのだと思う。

多くの不誠実なメディアの人間は「自分は知的だ」という夜郎自大な幻想を捨て、発信する情報に誠実であり、受け手の側は低い水準を狙って発せられた情報に「なめんな」と憤慨するぐらいの気概をもつ。
そんな歩み寄りがなければ、日本の未来はちょいと暗いかもしれない。






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by yamada-07 | 2008-06-09 23:43 | 雑記
村上隆氏のフィギュアが約16億円で落札されたという。

村上隆氏作のオナニーする少年のフィギュア、16億円で落札・・・米



ポップアート、前衛芸術ってのをいまいち信じきれないのが、もし仮にこの作品をそこら辺のなんでもない日本人の名で出品したら同額、少なくともそれに近しい値段がついたのだろうかということ。

天才を「積極的な価値感情を、広い範囲の人々の間に永続的に、しかも稀に見るほど強く呼び起こすことの出来る人格」と定義したのはクレッチュマーだが、その定義の最後の単語を「作品」にすれば、ほぼ丸ごと「芸術(狭義に「価値のある芸術」)となると思う。

自分がこの作品になんら積極的な価値感情を呼び起こせなかったからといって、すなわちこの作品が芸術の名に値しないというほど思い上がった人間ではないが、上の定義にあるように、芸術は「広い範囲の人々に」かつ「永続的に」積極的価値感情を呼び起こすことを必要とするのなら、その芸術としての価値は、いくつかの文化的潮流の変遷を耐えて初めて認めうるのではないだろうか。

一つの文化潮流の中で好評を博すことも無論素晴らしいことだが、それは一般的な「いい作品」に過ぎないと思う。
今回の「My Lonesome CowBoy」が現代の文化(ポップアート)潮流で評価を得たことについては現実として異論を挟みようが無いが、そこに約16億円という莫大な価値指標が十分な時間を経ないで付けられたことには、「芸術」という観点からはいささか勇み足の感が否めない。

勿論個人の価値観としてあの作品にそれだけの価値を認めて、巨額を投資したことには経済活動の自由というほか無いが、その個人の価値観/美意識が芸術としての価値とイコールで結ばれるかどうかはもっと時間を待たねばならない。

金銭は極めて抽象的な指標となりうるだけに、本来比較しようの無いものでも比較できてしまう。古典彫刻と前衛的なフィギュアを同列に論じることなど簡単に出来ることではないが、それすらできるかのように思えてしまうのが、金銭の抽象性の怖さだ。この怖さに自覚的でないとき、金額の多寡が、容易に価値の多寡に置き換えられてしまう(そもそも価値は量的なものでなく質的なものであると思う。ま、それは蛇足な話だが)。

言い換えれば、経年劣化に耐えられた作品こそ「(価値ある)芸術」と言えるのだが、十分それに晒される前に金銭による価値を付けられたのは、向こうしばらくの経年劣化に対するフィルターになりえるだろう。約16億円という金銭価値は、その作品が持つ(と承認されうる)価値指標として、それが流通する世界が広ければ広いほど、有効に作用する。
流通世界が狭ければ評価基準は多岐にわたり、購入者による金銭額以外にも価値評価は生まれうるが、様々な分野に流通するならば、そこにもっとも共通している価値指標は金銭価値だからだ。

前衛芸術に「言ったもん勝ち」の空気が拭えないのは、値段がついてそれが即作品の価値、という即物的な匂いが漂っているからだ。
時代を経ずに、価値に経年劣化を経験させずに、価値の検証がなされずに、既に名声を得ている作者の作品だから価値があるとでも言うような印象が拭えない。
名声ある作者による作品であるということは、確かに「作品」としての価値ではあるが、それは「芸術」としての価値とは別物だろう。

「即物的」と「芸術的」は、本来両立しないが、資本経済が発達した現在ではもはや両立させずにはいられない二律背反的な概念となっている。
村上隆氏の作品は、そんな状況へのアンチテーゼとしての意味合いがあるのではないかとすら思えてしまうのは、持たざるものの僻みだろうか。





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by yamada-07 | 2008-05-17 00:23 | 雑記

見解の相違 完全版

キャラクター紹介公開! 4月より“ノイタミナ”ほかにて放送の『図書館戦争』キャスト決定!


原作の文中に漂うバタくささ(悪い意味ではなく、それはそういうものとして)はこの作品(小説)にとって重要なファクターだと思うのだが、この絵を見る限りまるで匂ってこない。

挿絵のない原作(一巻)を読んだ印象では、主人公は「魔法使いサリー」のよしこちゃんを体育会系かつ現代風にした感じだったんだけどなぁ。
すくなくとも美(少)女のイメージはなかったし、堂上隊員ももっと鼻息荒くて泥臭い、でもちょっとナイーブな印象だった。だからこそ、それぞれと仲のいい人間との正反対な印象が際立っていたと思うんだが。


でも、これはこれで面白い作品になりそうな気はする。フォローとかではなしに。
原作の設定はしっかりしてるから、それに準拠すれば相応の作品になるのではなかろうか。絵もイメージとは違うにしてもすっきりして見やすいし。


そもそも、この作品は小説という媒体に縛られるものではないと思う。これもやはり、いい意味でも悪い意味でもなく。

例えば伊坂幸太郎や村上春樹の作品は、小説という媒体で発表されたものだからこそ、あのような独特の価値を持ちえたのだと思う。
村上春樹の作品の例は寡聞にして知らないが、伊坂幸太郎の作品は、最近多くメディアミックスされている。代表的なものを挙げれば「陽気なギャングは地球を回す」は映画化も漫画化もされているし、そのほか多くの作品が映像化されている(実際ここまで作品がメディアミックスされる作家も珍しいのではないだろうか)。
が、個人的には、どのメディアミックス作品も成功したとは言えないのではないかと思う。
もちろん、そもそも言葉のみで表現された作品と、映像・図画で表現された作品を同列に評価することはできないが、メディアミックスされた作品は、原作のあの独特な面白さを別の形でなんとか表現しようとして、そこにこだわりすぎるあまり全体のバランスを損ねてしまったのではないかと感じられるのだ(響野さんの奥さんが加藤ローサであったことに関しては、原作レイプという単語を使うのに吝かではないが。加藤ローサはかわいいけど、あの役柄ではないだろう、どう考えても)。

とまあ、独特な文章表現をする作家の作品をメディアミックスすることには、それなりに高いハードルが用意されてしまうという話なのだが、ここで改めて原作者である作家・有川浩の作品を読むと、内容云々ではなく、その表現は決して小説という媒体に縛られてはいないと感じるのではないだろうか。
勿論それは、文章表現が陳腐だなどと大それたことを言いたいわけではない。若干近くもあるが、そんな否定的に終わるものではない。
どうしても否定的なニュアンスを帯びかねない表現で恐縮なのだが、「どこにでもありそうで、実際すぐそこにある」文章であるように私は思うのだ。
比較のために、伊坂幸太郎の文章をそれに倣って表現すれば、「どこにでありそうで、でもおいそれとみつからない」文章であると言える。

多くの作家は、基本的に「どこにでもありそうで、実際どこにでもある」文章で小説を書いている。ニワトリタマゴ的な話ではあるが、そういう文章が好まれるからこそそういう文章が多く出回るのか、そういう文章が多く出回るからこそそういう文章が小説として広く普及するのか、それをどちらと片付けることは私にはできない。しかし、ひどい言い方をすれば、大同小異の文章(内容ではないことは強調しておきたい)が多く読まれているのは事実だ。

そしてそのような文章、広くいきわたっている文章とはつまり、既知のもに還元しやすい文章だと言うことだ。想像しやすい、解釈しやすい、アレンジしやすい文章だといってもいい。
そのような文章は、その内容を伝えるためのメディアには束縛されづらいという特徴がある。その内容、設定、構造をしっかり把握すれば、他のメディアに変換するのが比較的容易なのだ。

それがつまり、「小説という媒体に縛られない」ということだ。
それはあくまで特徴であり、好き嫌いの範疇ではあっても、正邪可否の概念には馴染まないものである。私は伊坂幸太郎のようなある種特徴的なリズムの文章を好むが、それはそれだけの話。それがあるべき姿だと言うつもりは毛頭ない。


ま、そんなこんなの「図書館戦争」のアニメ化。今をときめくノイタミナ枠だが、世間の評判ほど私は好いてはいない。「墓場鬼太郎」はビビッドでいい作品だと思うけど、その前の「もやしもん」がちょっとね……。あれは菌にしか愛が届いてない。世間的には評判もよく、いい視聴率もとったみたいだけど。
けっこう好みが分かれる作品を生んでるんじゃないだろうか。「墓場鬼太郎」のあの雰囲気も、私は好きだけど、嫌いな人がいてもおかしくなさそうだしなぁ。

でも、やっぱりちろっとは見ちゃうんだろう自分が予想できます。
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by yamada-07 | 2008-02-23 03:21 | 雑記

隣の芝は青い 完全版

我ながら言葉を弄するタイプだと思うが、時折そんなさかしらな心持ちを彼方まで吹き飛ばすようなシンプルにガツンと響く表現を読んで、ひどく悔しくなることがある。


『心に溜まった血を、ひたすら吐き出す為に。』


「神戸在住」という漫画の中で、主人公が悲しみに押し潰されそうになったときに先輩に泣きながらすがりついたシーンで、このナレーション(的な地の文)が書かれた。

直喩ですらなくずばりと言い切った『心に溜まった血』という表現にくらりとする。

漫画だと絵も付くため多少勝手は違うが、それでもそのシーンに相応しいシンプルな言葉を考えだすのは並大抵のセンスではない。

そのような、短い言葉に輻輳するように意味を持たせる、ある種「詩」的なセンスは、いつの間にか自分には手の届かないところに行ってしまった気がする。それは努力すれば手に入るかもしれないが、努力しなければ手に入らないし、努力しても手に入らないかもしれないものだ。
それは、努力すれば必ず手に入るものとは違う。自分自身との性質との相性に拠ってしまっているのだ。

「はじめの一歩」の板垣君の気持ちがちょっとわかる。
アウトファイターの板垣君のライバルは、インファイターの今井君。足を使ってどんなに細かいパンチを重ねても、一発大きいのをもらえばすぐに状況がひっくり返されてしまう。このスタイルを選んだのは自分自身だけど、それでも劣等感にも似た対抗心を抱かずにはいられない。

そんな気持ち。
ま、板垣君は実質全日本の新人王で、そこを引き合いに出すのは恐れ多くもおこがましいのだろうけど。


上に「短い言葉に輻輳するように意味を持たせる」と書いたけど、私が意識しているのはその真逆で、「言葉を選んで適切に補完させ合い、状況、心理をなるべく精密に描写する」ことだ。

ありがたいことに、時折「語彙が豊富だ」というお褒めの言葉(だよね?)をいただくことがあるが、それも、「状況、心理状態のより正確な描写をしたい」という心性の表れかもしれない。
絵の比喩で言えば、「詩」的なセンスをもつ人は、少ない絵の具でもその混ぜ合わせ方次第で自在に色を生み出せるけれど、それがない私のような人間は、多くの絵の具を用意して、それを様々にに使い分ける必要があるのだ。
あるいはそれは、キュービズムと細密画の違いにも似ているのかもしれない。世界を主観的に切り取るか、(主観的なことを自覚した上で)客観的に切り取るか、そういう違い。
主観的に感じた言葉を堂々と提示するか、自分の主観性をなるべく排除して、より広い範囲で共通認識を得られるように言葉を選ぶか。それが「詩」的と非「詩」的の違いだと思う。

少し逸れたが、そして精密描写を心がけた上で、言葉のリズム、音韻等に気を遣い、言ってみれば音読する時に楽しく読めるような文章を書く。それが私のモットーだ。

黙読している時でも、人はそれを頭の中で読み上げている。黙読ではなく、無音の音読だ。文章がリズミカル(ある一定のテンポを有する、くらいの意味で。あまりぴょんこぴょんこ飛び跳ねるイメージではない)であるほど、読書と言う行為は、内容から離れた楽しさを持ち出すと思う。
勿論書いているものが小説、エッセイ、論文調のものである以上、それが言葉の意味、文章の内容から完全に遊離することはできないし、それゆえ特にコンテンポラリーな詩などには追いつけない面だけど、逆に意味とリズムが結びついた散文には、詩とはまた違った面白さが出てくると思う。

谷川俊太郎氏は「詩は歌に恋している」と言ったけど、それに倣って言えば「言葉はリズムに恋をする」だ。氏の言葉より、もう一つ前の段階での文言だけど、だからこそ文章表現の分野でより広汎的に当てはまると思う。
品なく単語を並べ立てるのは、ある詩人の言葉を借りれば(確かこれも谷川氏だった気がするが確信はない)、「うるさい」のだ。言葉同士が軋みをあげて、言葉のリズムにノイズ(悪い意味で)が混じってしまう。それでは言葉の恋はまっとうできない。その軋みを調整して、かっちり歯車を噛み合わせてあげる。言葉とリズムが丁寧に結びついた文章は、とても「静か」なものなのだ。
ロマンチックでこっぱずかしいことを言えば、作者とは言葉とリズムのキューピッドであるべきなのだろう。うわかっこいい。


一応今回の記事は、初めから四段落目の一文を意識して普段の自分とは違う方向で書いてみたのだがどうだろうか。改めて自分で読んでも、たいして違いはない気がする。当人としては、僅かながらに差異は感じられるのだけど、それはやはり書いた本人だから、というやつだろうか。
あのようなシンプルでズシリとくる(とおぼろげながらに感じる)言葉を、普段のペラペラと進む文体の中にちょろりと入れると、音楽で言うところのリズムブレイクのようで面白いと思うのだが。
淀みなく流れる川の流れに突然石を投げ入れるようなもので、ぶしつけな流れのぶった切りに眉をひそめられるかもしれないが、印象の大きさはひとしおだろう。

蛇足ながら、逆にすごく自分らしいなと感じる文章は、一段落目と、六段落目の二文目だ。
ひとりごちの文章で一文が長くなったり、言葉をリフレインさせて文章を膨らませているのが、なんというか、ひどく「らしい」と思う。
ま、それ以外の各段落の文章も、「らしい」と言えば結局は「らしい」のだと思うけども。論の展開や、例の持ち出し方が、どうしようもなく自分的だと思う。それを抽象的に考えるとまた長くなるのでひとまず置くが。


いまのところ幸いにして、文章を読んだ人間(ま、絶対数が少ないことは事実だが)からは概ね好評をいただいているが、やはりもっと簡潔かつロジカルかつ読んでてニヤリとできるようなスパイスを効かせた文章を書いていきたいと思う。

これからもご贔屓にどうぞよろしくね。
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by yamada-07 | 2008-02-22 02:55 | 雑記

見えそで見えない高い壁

ペットを飼ったことのある人間とない人間の間には、見えそで見えない壁がある気がする。特に、青春期を終える前に飼ったかどうかで。

それは、動物(特に愛玩動物)に対して「余裕」が持てるかどうかと言うことなのだと思う。
簡単に言ってしまえば、動物に対する慣れということなのだけれど、そう言い切ってしまうのとはちょっと違うニュアンスで。

(愛玩)動物を見て「かわいい」という感想を持つのは、老若男女問わずありうる反応だけど、ペットを飼ったことのない人間は、そこに手放しの喜色を浮かべてしまう。「手放し」がわかりづらければ、無節操と言ってもいい。
別に悪い意味合いではなく、感情の目盛りが最初からMAXまで跳ね上がってしまうということだ、極端な話。

普段から動物と触れ合う機会がないと、いざ実際に触れ合ったときに、どう取り扱っていいか解らない。経験者にはわかる微妙な力の入れ具合や、触れていい箇所悪い箇所、そんなことがわからないから、「余裕」がない。余裕がないから、感情のふり幅がフラワーロックみたいに激しい。動物の愛らしさにぴょんと飛びついてしまうのだ。 あるいは、その感情の振れ方が逆に行けば、過剰に怖がることになる。さらにあるいは、そもそも針が動かない、無関心を貫く態度をとる。どれにせよ極端だということだ。


翻って、ペットを飼ったことがある人間は、自分の家のペットに経験がある分だけ、他の動物を見てもそこには余裕がある。どんなにその動物がかわいくても、よく親しんだ比較対象(つまり自分のペット)があるから、根本的に接した時の「新鮮味」がない。初見の動物と接した時にも、その前にはっきりした「点」があるから、経験の「線」が引けてしまう(逆に考えると、未経験者は基準の点が長く残りづらいので、どんなに他の動物をかわいがっても、あくまで点の集合に過ぎなくなってしまう)。
言葉を変えれば、動物に接する経験に対して「軸」があると言ってもいい。軸があって且つぶれないから、どんなに愛らしい動物を目の前にしても簡単には動じないのだ。

社会人になって独立し、経済的、家庭的余裕ができて初めてペットを飼う人は、それまでに憧れがあったからこそ飼いたがるのだろう。憧憬ありきでペットを飼うから、ある意味でペットに対してビハインドを負っているわけだ。つまり、やはり「余裕」がない。その結果、溺愛するか、憧れ敗れてすぐに飽きるか。その極端な二択に陥りやすいのだと思う。

仮に、この人間がペットを飼ったまま子供ができた場合、子供のほうがよっぽど「余裕」のあるペットの付き合い方ができるだろう。それは初めから家庭の内にあるものだからだ。

例えば、一昔前、まだテレビが高級品だった時代には、ブラウン管の前に自作の緞帳を飾っていた家庭もあったという。もちろん今の感覚からすればそれはちゃんちゃらおかしい行為だろう。テレビはテレビじゃないか、ただの家電になにをそんな大仰なことをするのだと。

生物と無生物の違いはあれど、この例での心性に違いはたいしてないだろう。つまり異質なものに対する余裕だ。どんなに異質なものでも、それが最初からそこにあるものだという認識であれば日常の殻を破ることはない。


きっと、「みかん絵日記」や「動物のお医者さん」の楽しみ方も、ペット経験のある無しで大きく違うに違いない。

ちなみに我が家の場合では、犬を飼ってはいたが、俺が物心つく前に死んでしまったので、兄やあるいは姉まではペットに対して余裕があるかもしれないが、俺自身はどうにも危ういというちょっと珍しい状況となっている。兄や姉が動物に対してどんな反応をするのか、見たことはないが少し気になるところだ。
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by yamada-07 | 2008-02-21 14:08 | 雑記

香ばしい男・西野

発言の香ばしさ(のみ)で話題の、キングコング西野先生のmixiのコミュニティを見てみた。

まあなんだね。当人が当人ならファンもファンかな、といったものだった。

参加者の書き込みは香ばしいわけではなく、むしろその逆で、各書き込みが妙にフレンドリーで白々しい。
例えるなら狂信的な委員長。もうちょっと具体的に言えば、精神的に甘くべたべたした木津千里が書き込んでいる感じ。

他の若手芸人のコミュニティも見てみたが、それらは特に気になるもんでもなかった。西野先生のコミュニティだけ、気持ち悪いほどのキラキラしたいい人光線が出ている。
いい人光線というか、いい人であろう光線と言う方が正確だろう。

西野先生にアンチが多いことは、ファンの方たちも周知の事実に違いない。実際、コミュニティ内の書き込みにも、アンチによる荒らしがいくつか見受けられた。だから、そのような荒らし行為の醜さを浮き上がらせるべく、過剰ともいえるほどにコミュニティ内の雰囲気をよくしようとしているのだろう。それが、いい人であろう光線の意味するところだ。

その戦略は十分効果のあるものだと思うし、俺がもし同様にそのような目にあったら、正面から相手取るのではなく、やはり無視を貫くだろう。そのような手合いには、罵倒よりも全スルーの方がよっぽどきついからだ。

とまあそのようなキラキラした和気藹々さで、コミュニティは基本的には平穏の内に運営されているようだ。


だが、その平穏さが世間でもマジョリティ足りえるのかという疑念は、心の片隅においておいたほうがいいと思う。

西野先生のどのような点を持ってファンになっているのか、俺には到底及び知ることのできない領域だけど、コミュニティ内の書き込みを見る限りでは、漫才はもとより、彼のブログを読んでファンになった、あるいはもっと好きになったという人が多く見受けられる(ちなみに俺は、本職である漫才は見たことがない、あるいは見ても記憶に残っていないので、その点からのコメントは差し控えさせてもらう)。


しかし、あのブログを読んで感じることは、「ああ、この人はエエッカッコをしたいんだな」ということぐらいだ。

かれは非常にカッコイイことを厚顔のままに言ってくれるが、そんなにカッコイイことを至極真面目に言われても、こちらとしては対応に困る。「だってお前は芸人だろ?」と。「なにをそんな高いところから言っているのか」と。

別に芸人が低い人間なんだと言うのではなく、むしろ順逆は転倒して、芸人が高いところからご高説をのたまってしまうのはオモシロにつながらないだろうということだ。
明石家さんまあたりのビッグネームの年収が一般人にも知られた当初、その余りの稼ぎの大きさに、客はしばらく素直に笑うことができなくなってしまったと言う。「なんだよ、俺たちはあいつを笑ってると思ってたのに、あいつはそんなに稼いでたのかよ」と。

この例は金の稼ぎの問題だが、本質に違いはない。賃金と言う便利な社会的指標は、その所得を稼いだ人間を容易に高いところに置きうる。社会的に上の人間を笑うのは簡単なことではない。
そんなわかりやすい人の摂理を、西野先生はよくわかってらっしゃらないのだろうか。ま、きっとわかっていないのだろう。

あと、彼は非常に自分の頑張りを公言してくれているが、自分で頑張っていると吹聴してくれる奴の痛さと言ったら相当なものだ。
頑張っている人間はかっこいいと思うけど、頑張っていると自分で言ってしまう人間はかっこよくない。それはもう我が身を振り返ることができるかどうか、大人としてのあるべき態度の問題だ。自省するそぶりがなくともかっこいい人間は皆無であるとは言わないが、そんな世界的にも一握りの人間のうちに、残念ながら西野先生は入ってはいない。入る気配も欠片もない。だから、あの自己愛垂れ流しの文章はただ痛々しいだけで終わってしまっている。


また、西野先生のブログは、なんだか言い訳のように読めてしまう。
自分はこれをやった、こう思った。
これをやっている、こうなればいいと思う。
そういうことを逐一告白するのはいいけれど、それは芸人としてどうなんだろうか。

芸人なら表現の手段は自分の芸、十歩譲って直接芸とは関係ないトーク、百歩譲ってオモシロを期したブログ等の文章表現であるべきだろう。
西野先生のブログは、あれは芸人キングコング西野として書かれているのではなく、その舞台から降りた状態、私人としての西野亮廣とみなすべきだ。
だって全然面白くないから。少なくとも芸人がオモシロを目指して書いた文とみなすのは無理がありすぎる。

芸人西野がやったことを、私人西野が説明している。けどそれは所詮解説に過ぎず、ラベル貼りに過ぎない。自分の表現を事後的に解説したところで、漫才のような時間に拘束されざるを得ない芸では、その芸を楽しむことになんの役にも立たない。後でファンがそれを見て意味の乏しい満足を得るだけだろう。

芸の最中に何を考えているだとか、漫才とは何かだとか、興味がある奴には面白いかもしれないけど、それは芸とは直接関係ない。芸は面白ければそれでいいし、それ以上の意味は芸そのものには関係ない。
その明白な無関係性から眼を逸らしながら、いい訳めいたものをつらつら書いているように読める。

そういうことをされると、一個人としてはどうかしらんが、芸人としてはかわいそうな人なんだなと思わざるを得ない。


そんな「ええかっこしいの言い訳」ブログこと西野公論
なにはともあれ、黒地に白文字はめちゃくちゃ読みづらいんでやめたほうがいいと思う。
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by yamada-07 | 2008-02-19 02:16 | 雑記