by yamada-07
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私こと山田も、今年で22歳。
中学や高校の時分に比べて、ずいぶんと体力が落ちたなと感じることもしばしばです。
6時間睡眠が三日も続くと辛いし、楽器をもって移動をするのもひどくしんどい。
肉体的な老いを、少しずつではありますが、ひしひしと痛感しています。

しかし、肉体ばかりではなく、脳みその方もそろそろ下降線をたどりだすらしいです。
聴くところによると、人間の脳みそのマックスは22歳の頃で、以降、確実にその能力は衰えていくそうな。

この話を聴いたのはつい最近なのですが、非常に強いショックを受けました。
体のほうが衰えているのに、頭のほうはそのまま死ぬまで成長し続ける。そんな虫のいい話はないですが、どうやら私は、その話を知っているだけで判っていたわけではないようです。
I've known,but have not understood.
って感じでしょうか。


しかし、22を過ぎてからだって、いくらでもすばらしいアカデミックな業績を人は残しています。
むしろ若いと呼ばれていた頃より老いてからの方が、主要な学術的発見はなされているはずです。
なぜ脳の機能が衰えているにも関わらず、人は年をとってからも知的活動を行えるのでしょうか。


人は学問を修めるときに、単に知識だけを学ぶだけではありません。
むしろ、ただ知識を得ることを学問とは呼べません。
人は学問を修めるときには、知識と同時に思考様式を学んでいるのです。

物理学であれ、精神分析であれ、人類学であれ、ロシア文学であれ、社会学であれ、あらゆる学術領域には様々な思考ツールがあります。
思考ツール。それは先行研究といってもいいのですが、人はある学問を学ぶときにはその先行研究をまず学び、いかなる方法でその分野に取り組むかを最初に習得します。
先行研究無しには、その分野を学ぼうと思ってもどこにもいけません。スタート地点で立ち往生です。その意味で各分野の先駆者というのはとてつもない知性の持ち主ですが、それはまた別の話。


ちょっと話がそれました。
とにかく、人が年をとっても、すなわち脳みその能力が衰えてもまだアカデミックに活動しうるのは、その個別的な各知識以上に、知識を包括的に活用できる「思考様式」というものを脳に溜め込んでいるからです。多種多様な思考様式があるからこそ、個別の知識を様々の形に結びつけ、そこから新しい発見ができるわけです。

脳のスペックが落ちても、その内部の合理化が衰えていくスピード以上に早ければ、相対的に脳の活用能率は上がっていきます。

そろそろ大脳皮質の曲がり角の山田としては、この考えを忘れずに勉強しようと思います。頑張れ俺。
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by yamada-07 | 2005-07-17 01:11 | 雑記

released and catched

今日付けで前期のテストが終わりました。さすが文学部。チョッ早です。
これで心置きなく……



院試の勉強をします。
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by yamada-07 | 2005-07-15 15:25 | 日記

顔は心の鏡

昔から繰り返し言われることには、言われ続けるだけの説得力があります。多くの人が納得するだけの根拠をもたない言説は、人々に膾炙される前に忘れ去られてしまうんで。


で、冒頭の言葉。
どこの誰が言い出したかは知らないが、最近この言葉に強く共感するところがあります。

ちょっと前にとある知り合いが、半年ほど前に振られた彼氏に対してあまりよろしくないようなことをしました。大雑把に言えば、一方的に被害者面をして元彼を人非人に仕立て上げ、他の知り合いに悪評を広めた、って具合です。

いくら憤ってもやってはいけないことってありますよね。それをやるのはちょっと人間的にどうよ、みたいな。それをしたら、なんか自分の性根の悪さがわかっちゃうんじゃね、みたいな。

(興奮して我を忘れている)自分にはなんてことのないことでも、平静な人が見聞きしたら思わず引いてしまうようなこと。つまり、普通に考えたらちょっと見苦しいようなこと。
そんな行為は、通常だったら自分の中で何かしらストップがかけられます。

そりゃそうですよね。誰だっていやですよ、自分が見苦しい人間だと思われることなんて。
ええかっこしいな人でなくても、周りに不快な印象を与えたくない程度には気を遣うはずです。

しかし、何らかの事情で、ストッパーを吹っ飛ばしてしまうほどに感情が昂ぶることもあるかもしれません(例えば、恋人に別れを告げられる、というものはさぞ激情吹き荒れることでしょう)。
そんな時は、↑のような、普段なら決してしまいとする露悪的な行為をしてしまうかもしれません。

ですが、そのような行為、見苦しい行為をしてしまった瞬間、それ以降、必ずその人の顔には「見苦しさ」が表出してしまいます。見苦しい行為を行った瞬間を切り取って、カリカチュアライズしたかのように当人の顔に張り付いてしまうのです。

おそらく(特にストッパーが外れた段階での)露悪的な行為は、行われた瞬間に何らかのカタルシスがあると思われます。
上記の例にしてみれば、自分を振った元彼の評判を落とすことで、自分の中の溜飲が下がるところがあるのでしょう。
カタルシス、つまりは浄化作用ですが、心の中に溜まった鬱憤を何らかの形で表出させた瞬間に、表面的な「顔」という部分でその浄化が行われてしまうのでしょうか、そこに形を変えた鬱憤が取り付いてしまうのです。

さらに上記の例に即して言えば、その私の知り合いの女性は、↑の行為をしてしまった以降、確実に以前より可愛くなくなってしまいました。以前にあった愛嬌が影を潜め、表情になにかしら棘というかえぐみというかがつきまとっているのです。
これは、私が彼女の行為を批判的に見ているがゆえにそのようなバイアスがかかっている、というわけではありません(ちなみに私は彼女が元彼を非難する場に居合わせたわけではなく、人づてに聞きました)。現在と数ヶ月前の写真を見比べれば、彼女の顔には確実に違いがあると思います。


一度この妖怪じみたものが顔に取り付いてしまったら最後、二度とそれは取り除けないのか?
そうではないと思います。
その妖怪をお払いする方法は、鬼太郎の妖怪ポストに手紙を投函自分のしてしまった露悪行為を反省することにあると思います。
その行為を反省するということは、後悔がついてまわります。後悔するということは、その行為に対して否定が入るということです。
その行為を回顧して、反省、否定し、同時にそのとき実行されたカタルシスをも否定することで初めて、その妖怪を闇に還してあげられるのです。


もしかしたら、各人の顔に憑いている妖怪が見えるのは、その妖怪が嫌いな人、つまり、その人がした露悪的な行為に「悪」を感じる人だけなのかもしれません。
ある倫理的な共通項がすれ違っている人、と言い換えてもいいですが。

てことは、案外病的なまでの潔癖症というのは、度を越えた倫理観(それが良い悪いとは関係なく)がゆえに、全てのものに見苦しい妖怪が見えてしまっている人なのかもしれません。なんてね。

ともあれ、見苦しい風に見られたくなければ、見苦しい行為をしないが吉ですね。顔にどんどん現れてしまいます。
そもそも、その行為の現場を押さえられた日には言い訳利きませんし。

品行方正に生きるのも悪くありません。
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by yamada-07 | 2005-07-14 00:10 | 雑記

理想の夫

通信教育のユーキャンが、「理想の夫像の有名人」についてのアンケートを行ったそうな。詳しくはこちら(PDFファイルです)。

確かに興味深い結果ですね。
独身者や離婚経験者に理想の夫像を見出している人がいるんですから。


キムタクが見事世の専業主婦の理想を体現しているようですが、いいんですか?我が子の名前が心美で。


ペ・ヨンジュンが理想の夫って、お前らただファンてだけじゃないのか?


突っ込みどころ満載の素敵なアンケートでした。
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by yamada-07 | 2005-07-13 21:02 | 日記

身の程を知れ!

とはよく聞く言葉です。いえ、正確にはよく読む言葉でしょうか。本や演劇などで耳にする割にはあまり日常生活で使う人はいなそうです。「そ、そんな馬鹿なぁ!」と豪快に悲嘆にくれる人がいないのと同じでしょう。


で、この言葉。
昔から日本では、身の程を弁えるということが美徳とされていました。
場所、人、状況に応じて、自分の立ち居振る舞いを調節することが、社会的に求められていた資質でした。
それゆえに、その場にそぐわない行動をする人にはなんらかのサンクションが課せられ、その一つが↑の言葉でした。


時が流れて、いつの間にやらそのような行動様式は、時代遅れのものとしてみなされるようになってしまいました。

「いつでもありのままの自分で」
「やりたいことを我慢することはない。それが自由社会だ」

このようなイデオロギーが、今まで「身の程を弁える」という考えが占めていた地位に取って代わっています。

進歩的、開明的とも思われているであろうこの考え方は、果たして本当にそんなにいいものなのでしょうか。あまりにも自明なものとして受け取られているこの考え方を見直す必要があるのではないでしょうか。

「身の程を弁える」ということは、単に状況に自身を応じさせるという意味合いだけでなく、状況に応じうるだけの能力が自分に備わっているか、と反省的に自己を振り返ることも意味します。
外的状況に自己を応じさせるという外側への視点だけでなく、外的状況にあわせるための自分の能力を的確に判断するという内側への視点も同時に持つのです。

「いつでもありのままの自分で」などというたわごとについての反対意見は昔の雑記で書きましたので今は置いておきますが、もう一つの「やりたいことを我慢することはない。それが自由社会だ」には、ここで疑義を呈したいと思います。

やりたいことをやりたいようにやる。
言うは易く行なうは難し、とはまさにこのことでしょう。
「やりたいこと」。これは別にいいです。そのくらいはわかるでしょう。脊椎反射のレベルで答えられると思います。
しかし「やりたいようにやる」。これは言うほど簡単なことではないでしょう。
「やりたいようにやる」には、まずそのやりたいことがどのようなことか、しっかり知っていなければなりません。幻想だけを抱いてそれに臨んだところで、その実体がそれからかけ離れていることもしばしばあります(逆に想像以上ということもないわけではありませんが)。
また、自分の能力を把握していないことには、その「やりたいこと」が必要とする技能を自分が所持しているかわかりません。
必要な技能をもたずにとりかかって、なにも、それこそ「やりたいこと」をできないうちに終わってしまうことすらあります。

単に「やりたいことをやりたいようにやる」と言ったところで、「身の程を弁え」ていなければそれもできはしないというお話です。耳障りのいい言葉にもたれかかるのもいいですけど、昔からある日本の考え方を再考してみるのもいいかもしれません。
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by yamada-07 | 2005-07-13 00:28 | 雑記
昔から、「なぜ大衆週刊誌の記者や芸能リポーターは、他人のゴシップにあんなに嬉々として飛びつくんだろう」って不思議に思ってました。

そんなに楽しいことなんでしょうかね?

だって、他人があまり知られてほしくないと思ってることですよ?
それをわざわざかぎつけて暴いてやろうなんて、下世話もいいとこ。
職業の貴賎云々の話ではなく(たとえそうだとしても)、あまり胸を張って言える職業ではないと思います。
最近の若貴騒動でも、あのリポーターたちの醜悪な姿は記憶に新しいところです(テレビはほとんど観てないけど)。

いったいなにが彼ら彼女らを駆り立てているのでしょうか。


思うに、ルサンチマンてやつが彼らの気持ちに一番当てはまるんじゃないでしょうか。
著名な人間、自分より社会的に成功しているとみなしうる人間を、その高いポジションから引き摺り下ろそうとする負の情動。それが、彼らをあのような行為に向かわせているのではないかと。
同時に、自分らがあまりほめられた行為をしてはいない、という自覚も起こるでしょうが、それすらも、恥部を暴露して自分たちより下のステージに引きずり落としてやればいい、という相対的な社会的地位の上位性に寄りかかる形で回避してしまうのではないでしょうか。


これはまったくの想像でしかないので、レポーターや記者の人たちには、それなりの言い分があるのかもしれません。
むしろなにか言い分があるのか聞いてみたい気もしますが。願わくば、それが私が納得しうるものであってほしいです。「知りたがっている人がいるから」なんていう凡百の意見は聞きたくないですがね。そんな理由で、他人の身辺を嗅ぎまわるという浅ましい行為の正当化はできません。
浅ましさを自覚した上で、なお胸を張って言える意見を是非聞いてみたいです。


この考えは、噂話が好きな人にも当てはまると思います。
噂好きな人は、たいがい自分の身近な人についてのことを噂のネタにするものですが、対象が身近であれば、その人が自分より明らかに社会的ステージが上ということはないでしょう。
なので、弱者のルサンチマンとは多少趣が異なるかもしれません。しかし、本質的にはほとんど同じと思われます。
噂話をして、対象の人に知られたくないようなことを広める心理の裏には、その人を貶めたいという願望が必ず隠れています。
あるいは、「隠したがっていることを私は知っている」ということで、優越感を保持したいという心理もあるかもしれません。

しかし、ルサンチマンというのは、誰かと自分の地位、能力などの非相称性により発生するのではなく、その非相称性を妬んだ瞬間に発生するものです。
それを払拭しようと、ルサンチマンを意識した瞬間に、今まで存在していなかったルサンチマンが存在しだすという、倒錯的な発生方法をそれは有しています。

なんにせよ、あんまり見てて感じのいい光景じゃないですからね、噂話に花が咲いているところなんて。ルサンチマンだ何だといわなくても、自重したほうが美徳かと思います。
私が以前所属していたサークルには、そのような人間が叢生していたので。やっぱり見てて薄気味の悪さとおぞましさを感じたものです。反面教師とはあのことだったのでしょう。おかげで噂話の類は決して食いつくまいと誓ったものです。それだけはあのサークルに感謝しています。それだけは。
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by yamada-07 | 2005-07-12 01:06 | 駄文

リバイバル

バナナは腐りかけがうまいとはよく言いますが、なにもバナナに限った話ではありません。

私は、「一回りしたネタは再び面白くなる」という理論を提唱します。

例えば「だっちゅーの」。
パイレーツが一斉を風靡した(と言っていいのか定かではありませんが)のは、1998年。遡ること7年前です。
別に面白くもなんともないのに、ただオパーイを強調するという荒業のみで流行語大賞を受賞した、なんともパワフルなコンビでした。
ちなみに当時の他の受賞語は「変人・軍人・凡人」(田中真紀子)、「ハマの大魔神」(佐々木主浩)、「ボキャ貧」(小渕恵三)などがあります。隔世の感がありますね。

閑話休題。
この「だっちゅーの」。今だったら、使いどころさえ間違えなければ、かなり面白いんじゃないかと思います。
具体的に「どこで使えるのか」と問われると非常に困ります。ネタってのは状況を選ぶし、なにより使う人を選びますから。
しかし、そのリスクの高さゆえに、ここ一番のタイミングで使えれば、馬鹿ウケ必至だと思います。
私なら、今「だっちゅーの」をうまいタイミングで使える人がいたら、その人を絶賛してやみませんね。

他に一回りしていい感じの言葉に、「えーちゃんにシュッ」とか、「だいじょぶだぁ」とか、「聞いてないよ~」とか、「同情するなら金をくれ」とか、「チョベリバ」などがあるかと。

書いててどんどん自分が一人ぼっちになってる感じがしてちょっと怖いです。

まだ時期尚早な言葉は「なんでだろ~♪」、「間違いない」、「ゲッツ!」、「……ですから。残念!」、「へぇ~」などでしょうか。
これらがまた脚光を浴びるには、もう数年寝かす必要がありそうです。
寝かして、忘れていなければ。


私は「……デタラメ?」(爆チュー問題)はそろそろありだと思うのですが、それに賛同してくれる人はまだ一人しかいません。どうでしょうかね?
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by yamada-07 | 2005-07-11 00:39 | 駄文

アイドルの限界線

時々見る眞鍋かをりのブログ、「眞鍋かをりのここだけの話」
もう最近思った。


もはやアイドルじゃねぇな。


ブログ本だすのは別にいいっす。書いてるのが本人だろうがゴーストライターだろうが別にいいっす。

それが今一番、否、おそらくデビューしてから一番熱く騒がれているであろうってことはどうなの?

このままでは眞鍋かをりの最終認知は「ブログが面白い人」で終わりかねない。少なくとも俺の中ではそうなる可能性大。むしろ確定事項に近い。

もしこのままブログが下火になったらどうするのだろう。
下火とは言わなくても、定着し、誰も騒がないようになったらどうするのだろう。

同じブログ好きとして、勝手に心配する今日この頃です。
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by yamada-07 | 2005-07-10 02:11 | 駄文

経験則

勉強にしろ、このブログにしろ、あるいはサックスの練習にしろ、私は気が乗らなければ徹底的に手を抜きます。というか、そもそも手をつけようとしません。

「気分が乗らないときになにかやっても、それはすこぶる能率が悪いものにしかならない」という信念を持っているために、頭が痛い、目が痛い、雨が強く降っている、どうも今朝の食い合わせが悪かった、お腹が空いて力がでないよ~、などといった理由のために、しようと思っていたことを放棄することが度々あります。
バイトや誰かとの約束など、直接的に他の人間が関わってくる場合にはそんな無責任なことは言ってられませんし、言っちゃいけませんが、こと自分個人である程度完結しうる事柄においては、この信念が常についてまわります。

短いながらも生きてきたこの21年、その中で形成された経験則なので、生半なことでは変えられない気がします。
まあ特に変える必要があるとは思わないんですけど、それでも困るのは「勉強」という分野において。
日々の積み重ねが大事なんてのは、一応受験を通ってきた身としてわかっているつもりだし、高校三年生の時分には実際できていたのですが、この大学の三年間ですっかりたがが緩んでしまいました。

なもんで、院試の勉強をするにあたってちょいと困っています。一ヶ月ほど前からちょこちょこと勉強を始めてはいるのですが、それもどうにも散発的。いまいち継続して毎日勉強することができません。いや、しなきゃいけないのはわかっていますが、いかんせん「気分が乗らない」。
とはいえ、昨日の「日記」に書いたとおり、八月に予定していたことが白紙になったために、勉強ぐらいしか真面目にすべきことがなくなってしまいました。ここで覚悟が決まれば、「気分も乗ってくる」と思われます。今日もまた勉強を(久しぶりに)しました。明日も続けばいい波が来そうです。幸いにして今はテスト期間。勉強の習慣をつけるには非常にいい時期です。

また、「気分が乗らないときは能率が悪い」ということは、「気分が乗ったときのアクセルのかかり方が半端ない」ということです。これも経験則。習慣さえつけば、あとはアクセルがかかるのを待つのみ。その時を待って、じっとルーチンに耐えるのです。

他の経験則に「本当にぎりぎりにならないと覚悟が決まらない」というのもありますが、それはさすがに変えないとまずそうです。昔から「長期的なスパンで準備をしておく」ということが嫌いな子供だったようで。
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by yamada-07 | 2005-07-10 01:54 | 駄文

予定外に

8月中旬まで予定がドン空きになってしまいました。

どうしようかな。

バイトしようかな。
バンド組もうかな。
旅行に行こうかな。
実家に帰ろうかな。
なんか書こうかな。


……勉強しようかな。
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by yamada-07 | 2005-07-09 20:07 | 日記