by yamada-07
カレンダー

<   2005年 07月 ( 42 )   > この月の画像一覧

妄想力

友人とくだらない妄想をして盛り上がることが、昔からよくある。
家に泊まりに行っては、とてもここでは書くことが憚られるような妄想爆発なことをのたまわってはげらげら笑い、知らず知らずに夜も白々明けるということが何度もあった。

私もずいぶんと妄想逞しい方だが、友人には負ける。というかのことなのだが。


で、その過大なる妄想力。
馬鹿話以外にどんな得があるのかと思っていたのだが、どうやら人生を楽しく生きるうえでけっこうな役に立つらしい。
詳しくはこちらを参照なのだが、あまりにもディープな妄想は、現実の行く末を変成するほどの力があるらしいのだ(こちらでは「妄想」と「想像」で区別しているけど)。

この友人M、昔から妙に彼女が切れることがないのだが、どうやらこの強烈な妄想力が関係しているのだろうと、この度確信した。
この男の妄想、異常なまでにディティールが細かいのである。いっそ偏執的といってもいかもしれない。
やっぱりここで詳細を書くことは憚られるが、今気になってる子のことを妄想しては一人キャーキャー言ったりするときに、その妄想の細部がこっちがびびるぐらいに具体的なのだ。
その一端を垣間見せれば、やれこんな服を着せたら似合うだとか、一緒に歩くときはこんな風だとか、入浴シーンはどんなだとか。
ちなみに、これはまったくもってライトな部分である。もっとディープな話になると、冗談でなく18禁。

こんな激しい妄想は、もはや創造ですらあるようだ。羨ましさ半分、ああはなりたくないな半分といったところだが。
しかし、妄想力改め創造力は、恋愛において非常に有益なもののようである。もちろん恋愛以外の面でもそうなのだろうが、私の場合(私本人じゃないのが寂しいところだが)でもっとも確証されているのが恋愛面なので。
「女」が「亡」いと書いて「妄」とはよく言ったものだわ。

そういえばダウンタウンの松本氏も、「クリエイターに必要なのは妄想力だ」みたいなことを言っていたような。
妄想が具体的になればなるほど、そこには現実に実現しうる可能性が強まるものなのでしょう。物質的なものでも抽象的なものでも。

私もMに負けないよう妄想を磨こうと思います。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-09 00:31 | 駄文

二分法

「われわれは団結してテロに立ち向かう。これは文明社会のすべての人に対する攻撃である」


今回のロンドンでの爆破事件に際し、英のトニー・ブレア首相が表明した言葉です。


この破壊行為は決して許されるものではないという大前提がまずありきですが、それでも感じた違和感があります。


ブレア首相の言う「われわれ」って誰ですか?「文明社会のすべての人」って誰ですか?

9.11の時のブッシュ大統領の語り口も本質的に同様なものでしたが、これは「踏み絵」にほかなりません。

「お前は『われわれ』の中に入るのか、それとも外れるのか。
入るならそれでよし。もし外れるなら、お前もテロリストの一員とみなすぞ」と。

この言説は、まったき二項対立で存在していて、そこには味方と敵、「われわれ」とそれ以外しかいません。どちらにも属さない、いわば仲介をなしうる存在が認められていないのです。

どこの国、どこの人でも、無差別破壊行為を是とする人は、まずもっていません。しかし、その前提があってなお、国際情勢での各国の動向には、各々の国の状況に従って、意見が異なってしかるべきです。二項対立、Yes or Noで語るには複雑すぎるグラデーションが描かれるはずです。
しかし、この「踏み絵」にはそのような階調を許しません。文明社会に入るか、野蛮人になるかを迫るのみです。

ブレア首相やブッシュ大統領の言説は、それを発した瞬間に世界に味方と敵を生み出します。
より正確を期せば、同質集団をまず生み出し、それの存在と同時に、事後的に「敵」と呼びうる対立集団を存在させます。そして、そのツートンカラーで世界を塗り分けるのです。

私は、あえて「テロ」という言葉を使ってきませんでした。それは、「テロ(リスト)」とは、世界を敵と味方に二分した後に、「味方(つまりは自分方)」の方から見て初めて使える言葉だからです。「敵」にしてみれば、それは「テロ」などではなくあくまで抵抗、「レジスタンス」であり、自分たちはその闘士だと思っているはずです。

世界を二分法で切り分けることを自制することから始めなければ、「テロ」がなくなることはないでしょう。
越えようのない断絶に隔たれたその世界には、対話、理解などといったものはありません。あるのは敵対と根絶のみとなります。

そんな閉塞的な世界、「テロ」があろうとなかろうと真っ平ごめんですけどね。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-08 23:07 | 雑記

七夕の思い出

大丈夫、七夕が昨日だったってことは知ってます。


私が小学生の頃、学校で、各クラスごとに笹にデコレーションをして体育館に飾る、という行事がありました。
私の小学校は一学年に二クラスだったので、六学年×二クラスで、都合十二本きらびやかな笹が、毎年夏の風情を醸しだしていたのです。

その笹もかなり大きいもので、高さにして4~5mはありました(それともそこまでいくと竹なのでしょうか?)。
公立小学校のどこからそんなお金が出ていたのか、今から考えるとちょっと謎です。大方、生徒の中に地主の子供がいたか、生徒の中にパンダの親戚がいたか、どっちかでしょう。

閑話休題。
私が四年生のときの担任の先生はS藤先生という人で、歳も若くスポーツマンタイプで、かなり生徒に人気がありました。校内行事などでも率先して皆を盛り上げ、先生というよりは、面白い親戚のお兄さん、といった感じでしょうか。

で、そんなS藤先生のもとで迎えたその年の七月頭。今でも忘れられない、衝撃的な一言がS藤先生の口から飛び出しました。

「あ、七夕あさってだっけ」

S藤先生、あろうことか笹のデコレーションのことを完膚なきまでに忘れ去っていたのです。
改めて他のクラスを見てみれば、教室のそこかしこに飾り付けに使うと思しきカラフルな折り紙が見えますし、意味のよくわからない色紙を鎖状に結びつけたものもあります。

で、振り返って我がクラス。
もちろんそんなものはなにもない、いつもどおりの我がクラス。
今まで気付かなかったことが不思議なほどの殺風景さです。

しかも、飾り付けに使う模造紙などは、あらかじめ申請することで入手できるもの。そらそうです。12クラスも一斉に使うとなるとけっこうな量ですから。

なもので、当時の我がクラスこと4-1が手に入れられた飾り付けの材料は、白の模造紙(おそらく社会科のグループ発表などに使うもの)のみ。
そんなものがクラスにあふれたところで、殺風景に拍車がかかること請け合いです。白色であふれた部屋なんて、むしろ病室です。

当然生徒たちは不満たらたら。他のクラス、学年と比較してはため息をついていました。
それでも、学校全体の行事であるために、飾り付けをしないわけにはいきません。ただでさえ前々日までなにも準備をしていない泥縄っぷり。愚痴をこぼしつつも、皆急ピッチで飾りを作りました。
そんな生徒の鬱々とした気分を察したのでしょう、S藤先生が一緒に作業をしながら言った台詞。

「ほら、うちの今年のテーマは『simple is best』なんだよ」

と。


火に油です。

半ば逆上しつつ猛スピードで作り上げた、その飾りの数々。さぞかし粗の目立つ出来だったことでしょう。


七夕当日に飾られた12本の笹。
生徒たちがわいわい言いながら作り上げたことが見て取れるような、彩り鮮やかな11本の笹。
緑に白のみという面白みの無いシンプルというか単純というかな1本の笹。

浮きまくりです。逆の意味でしか目を引くことはありません。
クラスメートは、悲しいやら穴があったら入りたいやら、ドン凹みです。

しかし、今考えるに、もっとも穴があったら入りたかったのは、その須藤先生(あ、言っちゃった)その人だったことでしょう。担任として、いい恥っさらしでしょうから。

そんなこんなで、私の10歳の七夕は終りを告げました。


これが私のもっとも思い出深い七夕です。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-08 18:05 | 日記
あいも変わらず、前の席の二人がうるさかった今日のドイツ語でした。

後ろから蹴ったぐってやろうかなと思ったのも、一度や二度ではありません。

状況から察するに、どうやら女の方がはた迷惑な人間のようです。
会話の口火を切るのは、いつも女。もちろん授業には関係のないこと。バイトがどーだのテストがどーだの。あたりを憚らない声というのはあんなのを指すのでしょうか。まさか授業中の声にその形容を使う日が来るとは夢にも思いませんでした。


授業を真面目に受ける受けないは個人の自由です。ただ、その自由は、他の人の迷惑にはならない程度の不真面目さであるべきじゃないかなーと。
居眠りならいいです。鼾さえかかなければ。
メールならいいです。マナーモードにさえしていれば。
漫画を読むくらいならいいです。声を出して笑いさえしなければ。

声をひそめることなく授業に関係ない話をするってのは、自由の範疇をはみ出てるんじゃないかなと思います。

ちなみに、そんな輩が叢生しているとある講義からは、早々に聴講意欲が失せました。単位を失うことになっても、あの不快な空間にいる気にはなれません。

一番かわいそうなのは、そんな連中に付き合って授業をせざるを得ない教授の面々かもしれませんが。


とまれ、来週で件のドイツ語はテスト。もう余計な私語に心乱されることはなさそうです。



……四年にして二年生に混じって授業を受けている私が悪いわけではありませんよね?
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-08 01:11 | 日記

友達

友達ってなんですかね。
難しいようで、簡単なようで、でもやっぱり難しいようで。

昔は、「一緒にいて楽しければ、それはもう友達だろ」と思っていました。
難しく考えることはない、と。

今でもその基本路線は変わっていません。関係にごちゃごちゃ理屈をつける方が、不純なように思えますし。

でも、それでも友達というものに一つの定義を加えるとしたら。

「その人からなんらかの不利益を被っても、なお笑って許すことができる人」

そんな風なことを言いたいと思います。

ここで大事なのは「笑って」ということです。

少し迂遠な道筋をたどりますが、少々ご説明。
スペインの哲学者、オルテガ=イ=ガセーが著した「大衆の反逆」の中にこんな一節があります。


「文明はなによりもまず、共同生活への意思である。他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。野蛮とは、分散への傾向である。
(中略)
自由主義は(略)最高に寛大な精度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである。それは敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。
(中略)
敵と共に生きる!反対者と共に統治する!」
(中公クラッシクス オルテガ「大衆の反逆」P89,90 訳:寺田和夫)


日常の中で、全て自分の意見が通るということはありません。必ずどこかしらにコンフリクトが起こっています。小は電車の席取りから、大は国会での法案まで、他者とせめぎあわざるを得ないところがあります。
しかし、我々が文明社会(と呼ばれるもの)の中で暮らしている以上、そのような衝突をむやみに切って捨てるわけにはいきません。その衝突の中でどちらかがその場を収めることになりますが、かといって、折れたほうが消えてなくなるわけではないのです。「敵と共に生きる」必要があるのです。
特に「弱い敵」。相手が自分より弱いということは、その相手方の決定権を自分が簒奪することも可能です。しかも「敵」ですから。自分に都合のよくない意思を摘んでしまったほうが、自分にとってはいいに決まっています。
しかし、それを決してすることがない。「弱い敵と共存する」のです。
それが文明である、自由社会である、とオルテガは言っています。


さて、前置きが長くなりました。改めてご説明。
私たちは、日々の生活の中で何かしら誰かから不利益を被ります。その不利益も、物質的なものから精神的なものまで様々です。
しかし、文明社会(日本をそう呼んでも差し支えはないと信じています)に住んでいる私(たち)は、その不利益をもたらすものに対して、むやみにサンクションを与えるわけにはいきません。もちろん法的な次元にまで行けば話は変わりますが、今は日常レベルの話です。

不利益をもたらすものを直接的に抹殺(直接的な意味ではなく)できないということは、その不利益を甘受せざるを得ないということです。

で、この不利益を被らざるをえないときに、普通ならムッとしますよね。
疲れてるときに電車で席に座りたかった。でもわずかな差で他の人に座られてしまった。
ムッとしますよね。
けれど、そこでムッとすることなく「ま、いっか」と笑って許せる人。友達と呼べるのはそんな人だと思います。


とまあこういうわけです。やっぱり理屈っぽくなってしまいましたが、そういう人間なもんで勘弁を。
そんな人が多くはないとはいえ、皆無ではないことに、多少なりともの自分の幸運に感謝します。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-07 01:00 | 雑記

なつかしの

昨日「購読する漫画が少ない」と言った舌の根の乾かぬうちに、買おうか買うまいか、迷う漫画を今日見つけてしまいました。

それは、集英社からでてる「封神演義」の完全版です。
「DORAGON BALL」や「SLUM DANK」、「幽々白書」などの総集編を出している集英社。取り扱う作品がちょっと最近のものになりました。


かーなり迷ってます。
「封神演義」は連載開始からリアルタイムで読んでいた作品なんですが、後半かなり飽きが来てしまい、最終回を迎える前に読むのをやめてしまいました。ほぼ同時期にジャンプ自体読むのをやめていたので、単純に飽きたからというわけではないのでしょうが。

なもんで、最後のほうの話はもとより、最初のほうのストーリーもうろ覚え(コンビニで立ち読み済み)でした。
宝具などのファンタジーチックな設定が大好きなので、惹かれるものがあるのですが、気がかりはやはり、「また飽きるんじゃねーか……」という懸念。てか、まず間違いなく飽きると思います。
けっこうな長さですからね、全二十三巻。完全版になっても、十五冊くらいは出るでしょう。そんなお金もないし……。

誰か買わないかな。そして貸してくれないかな。
他人任せ馬鹿一代。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-05 22:10 | 日記

メメント・モリ

最近読む漫画がずいぶんと減っています。購読しているものとなるとさらに減ります。
具体的には「HUNTER×HUNTER」、「王様の仕立て屋」、「アイシールド21」、「BLEACH」、「ヘルシング」くらいなものです。集英社の割合が非常に高いですね。

実はもう一作品あるのですが、それも今日最終巻を買ってきてしまいました。その作品こそ今日ご紹介するもの。それは「死刑囚042」です。
例に漏れず、この漫画も集英社からの作品で、作者は小手川ゆあさん。他にも「おっとり捜査」や「アルカナ」などの著作があります。

んで、今回のこのシリーズ。
設定はかなりとっぴなもので、「死刑制度の廃止を検討している政府は、ある実験を開始した。死刑囚042号=田嶋良平は脳の破壊活動を司る部位にチップを埋め込まれ、とある公立高校へ派遣される。彼の興奮が殺人を犯すほどに達すると、チップは爆発し脳を破壊するのだ。人間の生と死を問う衝撃作」(アマゾンのレビューより抜粋)てなものです。

全五巻を読み終わった私にしてみると、「生と死」を問うのではなく「死ありきの生」を問うているように思えます。

主人公は↑にある通り、元死刑囚。元、といっても他人に寿命を決められる状況から逃れたわけでなく、よりいっそう手綱を強く握られた形になっています。脳内に爆弾チップですからね。何らかの誤作動が起これば、それだけで死んでしまう。むしろ、ただの死刑囚より状況は危ういとも言えます。

自分の死が他人に握られている状況。そして彼自身、死刑を免れても刑が減じられたわけではないので、あくまで生活環境は死刑のない死刑囚。決して通常人と同じ生活が送れるわけではありません。
日常に死が転がっているという意味では、一般人もこの主人公の彼も変わりはありませんが、この彼はそれを常に意識せざるをえないのです。

この「死を常に意識せざるをえない生」、「終りがいつになるかわからないことを常に思い知らされる生」を主人公は生きています。

私たちは、日常生活を送っているときに「明日突然死んだらどうしよう」ということを切実に考えることはまずありません。明日、太陽が東から昇るのと同じように、自分の生は続いていくと思っています。
しかし、永久にそれが続くことはもちろんありません。神ならぬ人間、いつかは必ず死にます。明日車に轢かれるかもしれないし、一週間後に通り魔に刺されるかもしれないし、一年後に心臓発作で倒れるかもしれないし、十年後に自殺をするかもしれないし、70年後に天寿を全うするかもしれない。
人は必ず死ぬ。でも人はそれを常に意識することはない。

ならば、そうでない人とはどのように生きるのか。
この漫画はそのようなテーマを持っていると思います。作者の意図するしないと関わらず。

設定はとっぴ。でも、そのとっぴさをカバーするだけのストーリーテリングと、心理描写は存在します。脇役のキャラも立ってます。人物描写もかわいいです。最終話、泣けます。
上の理屈はあくまで理屈。この漫画は面白いです。面白くて考えさせられます。その上で泣けます。

気が向いた方、書店で手にとってみてはどうでしょう。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-05 01:21 | 青春の一ページ
都議選が終わったおかげで、静かな朝を迎えられるようになりました。
毎朝九時を回れば走り出す選挙演説カーこと騒音公害カーに苛立つ日々とも、ようやくおさらばです。

周りに迷惑をかけない程度のボリュームで、怒鳴らず落ち着いた声でしゃべる候補人がいればそれだけで投票してみようという気になりますけどね。

日曜の朝っぱらに「世界に一つだけの花」を大音量でかけながら走り回る選挙人がいたときには、東京都の未来のためにも、近隣住民の精神安定のためにも、事故にあってほしいと思いました。


選挙演説もそうなんですけど、なんで候補人や応援演説者は恫喝するようにしゃべるんでしょうか。「誰かになにかを訴えかける、メッセージを伝える」語法というよりは、「誰かになにかを押し付ける、従わせる」語法のように感じられます。
言葉は謙譲語を使っていても、語り口はひどく抑圧的なもので、違和感ぷんぷんです。結局あなたは私たちをどう思っているのか、と。

もっと柔らかな物腰で、決して声を荒げず、理知的に物事を語れる人。そんな政治家(候補者)がいてもいいんじゃないかなぁと思った今日このごろでした。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-04 12:38 | 日記

哲学事始

小学校三、四年生くらいのころでしょうか、私は、自分が死んだらどうなるか、ということを考え出して、ひどく恐ろしくなったことがあります。

今この瞬間に自分がなんらかの方法でもって死んだら、いったいどうなってしまうのか。
おそらく、まず家族は泣くだろう。泣いてくれる友人もいるかもしれない。通夜が行われるだろう、葬式が行われるだろう。火葬場で骨まで焼かれてしまうだろう。骨壷に入れられて家の墓に入れられるのだろう。


じゃあその後は?


それを考えて当時の私はひどい恐怖に苛まれました。

私の家族の中から私という存在が消えても、もっと広く捉えれば、世界から私が消えても世界は変わらず存在し続ける、ということに、言い知れぬ虚無感と寂しさ、そして恐怖を覚えたのです。

さらにそこから派生し、そもそも自分が生まれていなかったら、という問いを立て、再び恐怖に襲われたりもしていました。
まずは、「自分は世界に生まれてはいないけど、それを俯瞰的な位置から観ているポジション」、言わば神の視点のようなところから世界を想像します。
私の家族を見てみれば、家族六人(本来私の家族は七人ですが、そこからマイナス私ということで)がなんの変哲もない生活を営んでいて、学校を見てみれば、私の席が存在していない教室でいつも通り授業が行われている。そんな想像をしていました。
その想像自体は、ただ「自分がいない世界」というものの思考操作です。怖いなどと思うことなく想像にふけっていました。

しかし、あるとき「その想像は間違っている」とはたと考えます。
「本当に『私』が存在しないなら、そのようなことを見ていろいろ考え、思い、感じられることもないのだ」と。
そして、それを想像した瞬間、今までにない恐ろしさにとらわれたのです。
↑のように世界を見ることもできない、なにか感じることもできない、そもそもそんなことをする主我が存在しない、と考えたときの恐怖は筆舌に尽くしがたいものでした。

自分は世界に必要ないし、世界に対しなんらかの影響を行使したと思ったこともまるで意味はない。自分が生きてても死んでても、そもそも存在していなくても、世界は変わらずあり続ける。
その事実は、アソコに毛も生えてない子供の心に深い爪痕を残したと思います。


もちろん当時はまだ10歳になったかどうかの小学生。ここまで言葉を使ってその感覚を意識していたわけではありません。もっとたどたどしく、稚拙な感情表現でそれを感じていたのです。
ゆえに、その恐怖に上手く対処できず、ふとした拍子に「死んだらどうなるのだろう」と考え出し、家の二階から地面を見たりしていました。無論、よっぽどな落ち方をしない限り、三メートルもないところから落下しても死にはしません。まだまだそこらへんは子供でしたから。


今ではそんな思考の袋小路に追いやられることもなく、思案をめぐらすこともできるようになりました。しかし、子供の頃に到来したその虚無感と絶望感は、ずっと私の心の中で根を張っています。

曰く「世界は自分がいなくてもまわっていく」と。

私の考えに、けっこうな強さでバイアスをかけている気がします。



ちなみに、内田樹氏によりますと、↑のような問いから脱出するために存在するのが「哲学」だそうです。
なかなか、哲人な幼少の私だったようです。

あーね、「10で天才、15で秀才、二十歳過ぎればただの人」ってやつですか。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-04 01:06 | 駄文
サークルの後輩の初ライブがありました。行ってきました。

後輩の成長というのは感慨深いものがあります。あまり懇切丁寧におしえてあげている先輩ではありませんし、俺の背中を見て育て、と言えるほど上手いわけでもありませんが、それでも、ね。

努力が必ずしも大事というわけではありません。ライブにきてくださったお客さんにとっては、その結果、すなわちその時のステージこそが全てです。過程が結果に対して与える影響はほとんどありません。むしろ、プロセスに頼る結果は好ましくないと思えますし。

しかし、ひたむきな努力というのは、必ず演奏において現れます。
精神面なんて話でなく、演奏の表現においてにじみ出てくるものです。

今日の演奏も、決してとてつもなく上手いといえるわけではありません。まだジュニアということもありますし、改善できる点はたくさんあります。
でも、当人たちが「楽しい」だけで終わることなく、その問題点を見つけてより上手くなろうとする気概が見える、そんなステージでした。

後輩たちの先が楽しみです。俺も負けないようにがんばろっと。
[PR]
by yamada-07 | 2005-07-02 23:47 | 日記