by yamada-07
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昨日やってみたEQテストですが、各方面で反応があって嬉しい限りです。
で、そんな当テストですが、少し考えてみたい点がいくつかあったので、今日はそれについて。

気になったことは、各質問項目がどのように結果である各EQにつながったのか、そして、各項目から結果への収斂は、なんらかの自明の前提が作用しているのではないか、ということです。

対自己EQで言えば、例えば
(36) 気分がのらない時には,自分に喝(かつ)を入れることができる。
は、「スマートさ」、あるいは「自己コントロール」に分類されると思われます。
私はこの設問には「ややあてはまらない」を選択したように記憶しています。その理由は、私は気分がのらない時は気分が自然とのり出すまで待つ、ということを信条としているからです。あえて喝を入れてもそれが功を奏すとは限らないので、自然と自分から行動を起こすテンションになるまで待った方がいい、という経験則があるが故なのですが、この場合も一律に「スマートさ」、「自己コントロール」が低い傾向にあると括られてしまうと思われます。
また
( 4 ) 失敗しても,いい経験をしたとすぐに立ち直ることが出来る。
も、「いい経験をした」という文言のために、仮に立ち直りが早くても、おいそれとは「非常にあてはまる」を選択することができません。実際私は立ち直りは早い人間ですが、その時の自己の心理は「いい経験をした」というものではなく、「そういうこともある」という諦観に近いものです。そのため、やはり「非常にあてはまる」を選択することはできませんでした。

そのような例は他にもありますが、それらはまだいいです。文言の訂正で十分に修正が可能なものですから。
しかし、私がそれ以上に気になったのは、特に対他者EQに多く見られる質問⇒結果の過程にあると推測される、製作者の意図には浮かばなかったであろう不可視の前提です。

その例として、
( 9 ) 年下の人とも対等に付き合おうとする。
(17) ボランティア活動には,積極的に参加したい。
(20) 多くの人は,私に気楽に心を開いてくれる。
(37) たとえどんな状況でも,相手を傷付けることはしたくない。
(39) みんなのためなら嫌なことでもやる気になれる。
などがあります。
では、これらに見られる不可視の前提とはなにか。
それは、製作者自身のモラル観です。

(17)ではボランティア活動について設問がありますが、おそらくこれは「愛他心」、「社会的デフトネス」に関連すると思われます。この設問に対して肯定的な回答であるほど、「愛他心」、「社会的デフトネス」の数値が上がるのでしょう。確かに一般的な見解では、ボランティア活動に積極的な人であればその二項目について高い数値が出ると考えられます。
ですが、否定的な回答の場合には、本当にその二項目の数値が低くなることと直接リンクするのでしょうか。
また私自身の意見で恐縮ですが、私はこの設問には「全くあてはまらない」と答えました。理由は、ボランティア活動とは全く自発的な活動であり、それは積極性/消極性という対立で語られるものではないと思うからです。ボランティアという行為に善性をみつけることは可能ですが、それは完全に他者からのものであり、自己の内から善性を認めるということは、むしろ偽善であるとさえ思います。それゆえに、いささか逆説的な話になりますが、ボランティアの積極性/消極性ということが、対他者EQという自己認識の一要因になるとは考えません。
つまり、「ボランティアをする人は愛他心がある」という前提があるがゆえに、この設問はこのEQテストの中に挿入されているのです。ボランティアという概念に懐疑的な視線を向けることはせず、通俗的な見解でもってその結果を規定し、そもそもの概念の段階で意見を異にする人に対しても、一括りに一般概念に還元してしまっています。

(9)における「年下との付き合い方」、一般化した言い方をすれば「一般通念において自分より社会的に地位に低い者との接し方」となりますが、これはおそらく「社会的スキル」、「社会的デフトネス」の数値が変動すると思われます。
先のボランティアの場合と違い、この設問においては、肯定的な回答が数値の上昇をもたらすのか下降をもたらすのか、はっきりとしたことが言えません。どちらの可能性も推測できるのです。
上下関係を重んじるという観念が、社会生活を営む上でプラスに働くのかマイナスに働くのか一概には言えませんし、また、二つの項目の相関性も一義的には確定できません。「周囲とうまくやっていく術」などというものは、それこそ自分自身の能力単体で決まるわけではないのです。周囲の人の考え方、行動次第で、自分の「術」がうまくいくことも裏目にいくこともあります。設問を例にとれば、周囲の人が年齢による上下関係を重く見ない若年層であれば、年下とも対等に付き合おうとすることがいい方に出るだろうし、逆に、年齢の上下関係を重視する年配の方であれば、そのような行動は裏目に出るでしょう。
つまり、この設問が数値の上昇をもたらすのか下降をもたらすのかはっきりしたことは言えませんが、どちらにしても、そこには製作者の社会関係に対する予断が多く含まれているのです。

他の項目でも似たようなことはいえますが、冗長になるので例を二つ挙げるにとどめておきます。
もちろん製作者自身が社会集団の一員であり、なんらかの社会通念を身につけることでその社会と折り合いをつけているため、設問、結果への作用を考える際になんらかの「偏見」が入ってしまうことは避けられないでしょう。しかし、そのような「偏見」
があまりにも判りやすく露呈してしまっている今回のような状況は、あまりよろしいものではありません。完全な中立という立場が夢物語だとしても、それに近づく努力を怠らないことが、科学的態度というものです。
そろそろ卒論も手をつけなければいけない頃合いですが、自分自身このことを肝に銘じて卒論製作にあたろうと思います。

あ、別に対他者EQが低かった腹いせにこんなこと書いたわけじゃないっすよ?
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by yamada-07 | 2005-11-12 01:52 | 雑記

眉毛を片方剃ってみるか

世の中にはEQテストなどというおせっかいなテストがあるようです。

とはいえせっかくなのでやってみました。

で、結果。どすん。

 スマートさ    :15(13.2) ・・・ 臨機応変な頭の切り替えができる。
 自己洞察     :16(14.1)  ・・・ 自己の感情を察知できる。自己理解をしようとしている。
 主体的決断   :18(13.2)  ・・・ 状況を判断した上で、自ら的確な判断が出来る。
 自己動機づけ  :14(13.3)  ・・・ 粘り強さと熱意をもっている。
 楽観性      :12(13.2) ・・・ 楽観的な見通しと根気を持っている。
 自己コントロール :16(11.9)  ・・・ 感情を抑制する力、感情を高める力を持っている。
 愛他心      :12(13.7) ・・・ 他者のためを思って行動できる。
 共感的理解   :10(14.1)  ・・・ 他者の喜びや悲しみを心から理解できる。
 社会的スキル  :12(13.2)  ・・・ 社会生活上のルールをわきまえている。
 社会的デフトネス:9(12.6)  ・・・ 周囲とうまくやっていく術を持っている。

*括弧内は平均を表す。

上六項目が対自EQ(自分の感情に気付き、それをコントロールする力),下四項目が対他EQ(他者の感情に気付き、周りとうまくやっていく力)です。


やたらと高い主体的決断、自己コントロール(同様の結果は運転免許取得の際の「運転適正テスト」でもでている)。
やたらと低い社会的デフトネス(一桁ってどういうことだ)。
明らかに差のある対自EQと対他EQ(対他EQ全て平均以下って)。

こりゃもう山にこもるしかないな。
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by yamada-07 | 2005-11-11 03:13 | 日記

型と芯 ~博士に捧ぐ

日本の文化の中で、個性的であるということが、さもすばらしいことであるかのように語られだしてから随分経ちます。
その起源をどこまで遡ればいいのか確実なことはいえませんが、あまり昔、戦前戦後すぐにまで遡ることはまずないでしょう。戦後復興、高度経済成長、オイルショックを経て、バブル期に突入する前後まででの生活水準の底上げ、均質化が日本全体に及んだあたりで、そのような言説が国民全体に馴染んでいったと思われます。

もちろんそこには、戦後の復興期、日本の庇護者であると同時に目標でもあったアメリカの文化的影響が非常に強く及んでいます。非常に強く、と言うよりは、もはやそれの劣化コピーである、と言ったほうが正しいでしょうか。なぜ劣化なのかと言えば、根本的な文化背景が異なる日本とアメリカでは、個人主義が同じような効果を発揮するとは考えがたいからです。

「アメリカは罪の文化、日本は恥の文化」とは「菊と刀」の中の言葉ですが、神と信仰する個人(自身)というように、自己抑制の視点がタテ方向に存在するアメリカと、個人(自身)と同族集団内の他者という横方向の形でその視点が存在する日本では、「個人」と言うものの捉え方が大きく異なります。あくまで一対一で「個人」が規定されるアメリカに対し、日本では集団内の変容に応じて「個人」も変わらざるを得ないからです。
それゆえに、個人主義がアメリカから同様の形で流入してきても、その同質性が高ければ高いほど、逆に劣化してしまうと言う事態になります。


で、まあそんな堅っ苦しい枕は読み飛ばしてもらってもかまわないんですが、本題はここからです。


最近はそれほど個性個性と騒がれることはありませんが、それはむしろ、「個性的であるべし」というイデオロギーが十分に一般に浸透してしまった証左であると考えていいでしょう。反対に、そのようなイデオロギーが廃れてしまった、というようにもとれますが、そのような場合、必ずカウンタームーブメントとしての均質化指向が生まれます。この反動は方向が逆の場合でも起こるものであり、つまり、均質化指向のカウンターとして個性指向も生まれうるのです。通時的な状況を鑑みれば、後者が起こり再び前者が返ってきたと考えるよりは、後者のカウンタームーブメントが起こり、そのまま定着したと考える方が自然でしょう。


どうにも今回は堅っ苦しいですね。久しぶりだから緊張してるんでしょうか。


で、その今現在主流であろう「個性的たるべし」というイデオロギーですが、それは本当に妥当なものなのでしょうか。

既に冒頭の枕の中で「劣化コピーである」という言葉を使っているところから推察できる通り、私はその考え方には懐疑的です。
懐疑的であるというよりは、「個人主義というものを日本で通用させるには、いくばくかの改良が必要なのではないか」と思っているのです。
それを端的に表せば「個性は社会性に勝るものではない」ということです。
言い換えれば、個人の信条より集団の最低限のマナーを優先すべし、となるでしょうか。

既に述べたように、日本人はアメリカなどの欧米に比べ、個人(自分自身)が同族集団に規定される比率が大きいです。もちろん同族集団は単一であるわけではなく、家族、親族、町内会、学校、会社、自発参加型のコミュニティなど、お互いに重複する部分を持ちながら、多様に存在しています。
図象的なイメージを提起してみましょう。平面上に様々な大きさの円が描いてあります。それらは互いに重なったりすっぽり他の円の中に納まったり、あるいは他の円とは接することなく離れて描かれていたりしています。
この円がそれぞれの集団であり、この円が重なっている部分の任意の一箇所こそ、ある個人というわけです。
この円はそれこそ星の数こそ存在し、さらにその円同士が重なっている部分となれば、組み合わせの数は無限とも言えるほど膨大になります。つまり、個人の有り様は無限に存在すると言えるのです。

集団がこのような形で存在していることは無論のことアメリカなどでもいえるわけですが、この多様性が個人の有り様を規定する比率がそれほど高くないのが欧米的な社会なのです。
これは前述のように、神と自身、という形で主に自己に視点を当てる一神教的(唯一神)な形態の宗教ゆえです。だから、他の誰が自分(個人)を認めてくれなくても、自分が信仰する神は自分を認めてくれているはずだ、という形で自己塑形をします。これは集団的なルール(あるいはマナー)の束縛を省みることがなくなるという短所がありますが、逆に、誰も他人が見ていなくても自分が信じる神が見ているので、自分の思う悪いことはできない、という思考が導かれうるとういう利点もあります。

また話が少しそれましたね。戻します。ぐいん。

日本文化では、他人の視点を気にして、あれしちゃいけないこれしちゃいけない、と行動を規定していきます。こう書くと主体性がないように思われますが、そもそも主体性なんてものも、集団の中でどのように振舞うのが効率的であるか、自分の信条(心情でも可)に適合するかという形でしか発現しません。集団(すなわち他者)あるが故の主体です。
この他者との関係性という基盤を無視していたずらに「個性」を押し出そうとしても、それは集団内部の齟齬という形でしかありません。というよりは、集団内、他者との関係内で、その関係を無視して効率的、合目的的に行動しようということが、そもそも自家撞着なのです。

集団の中で適応する能力、すなわち社会性を後天的に取得した後で、初めて個々人の個性というものが発露していきます。今後どう変化しうるかはわかりませんが、少なくともそれが今現在の日本社会だと思います。元来、タテの関係で規定された個人が束ねられて作られている欧米社会とは、その集団的特質が異なるのです。

ゆえに、日本では「個性は社会性に先立つものではない」と考えます。
「型にはめられた人生なんて真っ平だ」、「社会の歯車にはなりたくない」などとのたまうプチ尾崎さんたちは、まず、型にはまれる人間、歯車になれる人間になってから、改めてそういうことを言って欲しいものです。
埋没している中から光ってこそ、かっこいいと思いますけどね。埋没すらできないのは、それは能力の欠如です。あるいは努力ですか。社会性なんて後天的な能力ですからね。

さ、盗んだバイクで走り出して、夜の校舎窓ガラス壊してまわろうかな。


以上、少数派山田が送る、マイノリティ・レポートでした。
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by yamada-07 | 2005-11-10 00:27 | 雑記

非常に危険な匂いのするブログがリンクに追加されたことには触れないでください。
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by yamada-07 | 2005-11-09 22:43 | 駄文

三年

実に三年ぶりに吹奏楽を体験してきました。

同居の友人のツテで楽団を見学に行き、吹いてきたんですが、これがもう未知の領域。高校時代にやってたんだから未知のはずはないのに、あれは未知。

ジャズ畑に接木されて久しい私にしてみれば、クラシカルな吹奏法なんて忘却の彼方です。
中二の時、最初隣の席になった女子は誰かと言うくらいに彼岸です。

ニュアンスのつけ方だって、ジャズとクラシックでは真逆。
真逆なら普段の逆に吹けばよさそうなもんですけど、私そんなに器用な人間ではありません。音の入り切りだって、「ああ、おれ浮いてんな」と思いつつ吹いていました。体がかつてを全然思い出してくれませんのよ。

しかし、鬱になるばかりでもありません。
しばらく一人で練習していた私にしてみれば、あまり人数は多くなかったとはいえ、他の方々とアンサンブルができたのはとても嬉しいことです。普段ジャズ畑ではやらない、皆で和音を進行させるなどといった練習は大きな収穫でもありました。

ああ、音楽って楽しいなぁ。


今後その楽団に加入させてもらうかは未定ですが、吹奏楽も悪くはないとは思いましたね。
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by yamada-07 | 2005-11-07 02:24 | 日記

救援物資

米、たまねぎ、ジャガイモ、カレールー。

カレーを作れと言う願いがひしひしと伝わる母からの仕送りでした。
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by yamada-07 | 2005-11-01 18:37 | 日記