by yamada-07
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<   2006年 02月 ( 15 )   > この月の画像一覧

院試が終わってからエヴァンゲリオンのDVDを見始め、現在22話まで視聴終了。

思うこと。

こんな作品を午後六時の子供向けに放映していたかと考えると、もう敬意を払わざるを得ないレベルなのではないのだろうか。

未知に耐えるとかそんなんじゃなくて、うん、意味が分からない。

おいおい、庵野監督、やりたい放題もたいがいにしたほうがいいんでないかい。

グロくてエロくて伏線張りまくってトラウマ残しまくって。

改めて言おう。

庵野監督、あなたに敬意を払いたい。

未見の人は一見の価値あり。できればまとめて借りて、一息に通して見た方がいいでしょう。
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by yamada-07 | 2006-02-14 02:05 | 日記

世界の分節線

バイトから帰る電車内でのこと、少々アルコールが入っているのか、話し声の大きい男性二人組がいました。見た感じからして、まあなんて言うか、世のおじ様方が世相を嘆く時に使う「最近の若者」を体現しているような、軽薄さが体臭として臭い立ちそうな、顔面に「世の中なめてます」と書いているような、そんな感じの二人組でした。とはいっても、私の予断と偏見が入り混じった感想なので、話十分の九くらいの想像でとどめておいてください。
ともあれ、その二人が電車内にも関わらずでかい声でしゃべっている最中に聞こえてきた単語、「マジウゼー」。この単語を聞いた瞬間に、前述した彼らに対する偏見が確立されたといっても過言ではないでしょう。
「マジ」と「ウゼー」のたった二単語の複合のみによる発話。どちらの言葉も日常会話のボキャブラリーのストックには常備されていますが、その組み合わせによりここまで破壊力のある発話が構成されようとは。

世界は言葉によって分節化されている、というソシュールの知見は何度もひいていますが、今回もそれに合致しうる状況といえるでしょう。
この発話を行った彼にしてみれば、会話の流れの中で想定されたある状況に対する印象が、「マジウゼー」という言葉で表現されうるものだったのでしょう。その言語が想起された瞬間、その会話の中の世界は彼にとって「マジウゼー」ものとして切り分けれられたのです。「マジウゼー」というほとんど脊椎反射で口に出されるような言葉で世界を切り取るようなことは、その世界の多義性、色彩、可変性をばっさり切り捨て、極めて単純単調な一義に回収してしまうようなものです。「ウゼー」などという言葉は、拒否、拒絶、排除の言葉ですからね。もはやそこに新たな世界の胚胎はありません。語彙の差(量的なものでも質的なものでも)は、そのまま世界認識の差に直結していると思います。言語の違いによる質的な語彙のカテゴリーの差を同次元に無理矢理組み込んで良し悪しを論ずることに意味はありませんが、同一言語内での語彙の量の差は、認識の上でそれなりに有意な差になってくるのではないでしょうか。喩えるなら、8ビットのファミコンと64ビットのNINTENDO64の差です。マリオの顔のディティールの差は一目瞭然旗幟鮮明、火を見るより明らかとはこのことでしょう。

「マジウゼー」が日常会話の中でぽんと軽く提出されるような言語世界では、おそらくたいがいのものが「マジウゼー」ものになっていることでしょう。そんな「マジウゼー」もので横溢する世界(使っている当の本人には自覚のないことでしょうが)で暮らす人の目に世界がどのように映っているのかは知る由もありませんが、できればそのまま知らずに過ごして生きたいものです。
こうして、今現在の「私的・輝け☆低脳を露呈する言葉大賞」の第一位に「マジウゼー」がランクインしました。今後どのような言葉と熾烈な争いを繰り広げるのか、巻き込まれることのない彼方から見物したいと思います。
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by yamada-07 | 2006-02-12 01:44 | 雑記

言語運用能力の根本

我が意を得たりとばかりの内田樹氏のこの記事。

最近になってこりこり小説を書いていますが、この記事で言われていることが強く実感できます。
私が小説を書いている時、意識表層の私は、今書いている(あるいは書かんとしている)文章をどのように完結させようとかどのような展開にしようか、ほとんど理解していません。理解していないなどというと奇妙な言い方かもしれませんが、まさに自意識、自らの行動に対する不理解なのです。
シャーペンを握ってレポート用紙を前にして(パソコンがあるにも関わらず、小説を書く時はこのようなアナログなやり方が好きなんです)、とりあえずの舞台状況を設定して最初の文を書き出す。私の自意識が明確に働くのはここまでです。あとに続く文は、その最初に書かれた文と舞台設定に応じて、ほとんど自動書記のように記述されていきます。感覚としては、プロの小説家や漫画家の言う、「キャラクターがひとりでに動き出す」、というものに近いのではないかと思います。

私は、私がこれから先なにをどのように書こうとしているのか判っていません。文を書いているまさにその瞬間において、私は私がなにを書きたいのか理解するのです。
では、なぜ私は自分が何を書きたいのか理解していないにも関わらず、筋のある文章を書くことができるのでしょうか。ここで、妖怪にとりつかれているからという珍説を持ち出して、現代妖怪辞典に新たな一ページを加えることはできない相談ではありませんが、それはとりあえずお蔵入り。いえ、はっきりとできない相談です。

ならば、いったいいかなる理由によるものなのか。
それは、おそらく私の中である一定の秩序に基づいて「母国語が骨肉化している」だと思われます。この各人固有の秩序形態は十人十色の多種多様、その人の生来的特質、環境的条件などによりあらゆる形をとることでしょう。その肉付きの程度こそが、その人の個性というやつだと思います。
ですが、不幸にして母国語が骨肉化していない人間は、その言語運用能力において致命的な欠陥を有さざるを得ません。単語の選択が誤っている、てにをはが不適当だ、文章に筋が通っていない等々。それは骨折した人間や極端に栄養失調の人間が、正常な身体活動を行えないことと同様です。その形はどうあれ、まず最低限の骨肉を持たないことにはどうしようもないのです。

ここで少しわき道にそれますが、創造性というものを考えてみましょう。
一般的に創造性というものは「無からの存在の立ち上げ」、「独創性」などと解されますが、上述したことを踏まえて改めて考えると、それら(つまり「創造的なもの」ですね)は決して全くの無から生まれたわけでもないし、他の何物にも由来しない孤高のものであるわけでもないことが推論できます。物事の「創造」とは、あくまで今まで自分が培ってきた経験からのフィードバックにより行いうるものであり、「創造」そのものが単独で存在しうるわけではないのです。キュービズムを「創造」したピカソだって、ビバップを「創造」したチャーリー・パーカーだって、その前段階で必ず生み出したものに繋がるなにかを習得しています。仮に今まで存在していたものと一切全く欠片も関係ないものを生み出したとしても、それも「今までの一切と関係ないようものを生み出す」という、関係性を捨象する形での関連性があるはずです。
つまり、上述と関連させて結論を述べれば、「創造」を成し遂げるには、必ずその分野の基本技能の骨肉化が必要なのではないか、ということです。


まさか、「キャラクターが勝手に動き出す」なんていう作家さんたちの気持ちがわが身に起こるとは思っていませんでしたが、氏のブログを読んで合点がいったと同時に、自分の日本語能力もちゃんと機能しているんだなぁと少々嬉しくも思ったり。
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by yamada-07 | 2006-02-08 01:00 | 雑記

暇な土曜日の午後

さっきの記事を書き上げた後、ここまで天気のいい日に太陽を直接浴びないのはもはや罪悪だろうと思ったので、家の周辺をぷらぷら歩いてきました。
ブックオフ、ラーメン屋、近場の本屋、駅とは反対側のスーパーと、引っ越してから一度も足を踏み入れたことのない店を何軒かまわってみました。

その中で特筆すべきは、漫画でも買おうかと思って立ち寄った家から徒歩五分の本屋。大き目の通りに面しているとはいえ基本は下町の界隈、その店のたたずまいからして、漫画や雑誌をs中心に扱った子供や主婦向けの本屋なんだろうなと予想して店内に入ってみたら、それが全くの見当違い。いい意味で。
落語関連の品揃えがやたらといいわ、内田樹氏関連の書籍がやたらと多いわ、新書の趣味がやたらといいわ、とっても私好みのセレクトです。

店主がいったい何を基準に本棚に商品を並べているかは判りませんが、只者ではなさそうですよ、はい。
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by yamada-07 | 2006-02-04 16:39 | 日記
なんあかやのあれやこれやで、自由な時間が溢れている今日この頃、こんな天気のいい日がチャンスとばかりに、昼間っからエヴァンゲリオンのDVDを観ていました。

このアニメが最初に放映されたのは、今を遡ることおよそ十年、まだ私が小学校高学年の頃だったと思います。今の私しか知らない人から見れば信じられないことでしょうが、当時の私は結構なテレビっ子だったので、夕方五時から七時まで、家に帰れば毎日がアニメアワーでした。さらに信じがたいことに、中学生くらいまでの私は半いじめられっ子だったので、本とテレビが一番の友達といってもよかったほどです。そこらへんは愛と勇気だけが友達のアンパンマンと合い通じるところがあるとも言えるでしょうか。さすがテレビっ子。
そんなこんなだったので、夕方六時からはテレビ東京が定番。関東圏限定の話で恐縮ですが、子供の王道12チャンです。
エヴァが始まった時の衝撃を今でも覚えています。毎週欠かさず観ていたであろう水曜夕方六時からの12チャンのアニメ、それが前の週で最終回を迎え、今週から新番組が始まるとのこと。何がしかの用事で六時の放送開始には間に合わなかった私は、オープニングの主題歌、CMを見逃して、本編開始直後からテレビの前に座っていました。そして五分ほど観ていたところでまず抱いた感想。

「なにこれ?」

頭の上に大きなハテナを浮かべて、理解不能をありありと顔面に滲ませながら首を捻りました。
最初のCMまで観たところで夕食の時間となり、普段なら見終わるまで頑としてテレビの前を動かない私でしたが、疑問符に体を支配されていたその時の私はおとなしく隣の台所に行き家族と食事をとりました。そしてそれ以降、水曜六時にテレビの前に座ることはなくなったのです。


それから時を経ること十余年、少しばかりは世間に揉まれた私が改めてこの作品を観て、当時の私がこの作品を観続けることができなかった理由がようやくわかりました。
このエヴァだけでなく、ほぼ同時期に放映された「機動戦艦ナデシコ」などの作品にも言えることですが、これらの作品は完全に「おとな」に向けて作られていたのであり、「こども」など端から相手にしていなかったのです。

さて、ここで重要なのは、従来的な意味とは異なる「おとな」と「こども」の概念です。
勿論ここで言及している「おとな」と「こども」は、肉体的な意味ではありません。第二次性徴を迎えているかどうかを基準にしようが、生殖行為を体験しているかどうかを基準にしようが、そんなこととは一切関係ありません。ほぼ100%精神的な部類に属する「おとな」と「こども」の区別です。
結論から先に言ってしまえば、「未知を未知のままにしておくことができるか」、「世界を既知で埋め尽くさないでもいられるか」という基準線、つまり、「世界の未知性に耐えうるもの」を「おとな」と呼び、「未知に対してwhatとwhyを叫ばずにはいられないもの」を「こども」と呼ぶのです。

少々脱線しますが、この区別は人間とコンピューターの知性の差としても言うことができます。
精神分析家のラカンの秀逸な比喩を引いてみましょう。
ある夜、航海中の船の当番員が、沖合いに浮かぶ物体を発見しました。時間は深夜、あたりは暗く、船からその物体までの距離もあるため、その物体がいったいなんであるのか明確に判別できる状況ではありませんでした。このときこの当直の人間は航海日誌に「・・時・・分、緯度・・、経度・・の地点でよくわからないものを発見」と記すでしょう。しかし、機械ではこのようにはいきません。コンピューターの知性では、いったん確認しものを判らないままにしておくことはできないのです。最終的な情報処理は、よくわからないものを無理矢理既知のものに同定するか、あるいはなかったものとしてその存在そのものを認めないのです。
つまり、未知の未知性を毀損することなく判断を保留できることこそ、人間とコンピューターの知性の間の大きな隔たりなのです。

閑話休題。
先ほどエヴァは「おとな」向けに作られていると書きましたが、それはまさにこのような知性を有するものを対象として、このアニメが作られているということに他なりません。
確かにエヴァはその作品の意味内容を理解するには、ある程度の知識は必要でしょう。キリスト教(聖書)的背景、ディティールにこだわっているがゆえの社会的・歴史的知識、近未来SFのお約束である物理学用語……、それらがぎゅうぎゅうに詰め込まれている、内容の非常に濃い作品です。
しかし、それらの知識は、ただ一つの知性によって代替が利きうるものなのです。それが先ほどから何度も触れている「未知に耐えうる能力」です。
使徒の名前が聖書から引用されているとか(そもそも「使徒」という単語そのものがそうですが)、大規模災害の後にこのような社会的措置がなされるであろうという予備知識とか、ポジトロンが陽電子を意味するとか、そのようなことは知っても知らなくても大差ないことです。
それらを知らないままでも楽しめる能力を持つものを想定して作品を作ったからこそ、庵野監督はここまで好き勝手できたとも言えるでしょう。

また、「おとな」を想定した知性の在り様は、第一話から常に縦横無尽に張り巡らされていて、結局最終話まで観て映画も二本観ても回収されきれていない伏線についても言えます。
これはさすがにやりすぎだろうおいおい最後まで観たけどまだわかんないようそ映画を観てもまだわかんないの信じられなーい的なこの伏線の張り方も、視聴者がその伏線に耐えうると信じていたからこそ、蜘蛛の巣よろしくここまで張り巡らしていたのでしょう。当時の私のようにまだ「こども」の知性しか持たない憐れな蝶は、その蜘蛛の巣に捕らえられてそのままチャンネルを変えるしかできないのです。伏線はすぐに明かされて欲しい、自分の前に自分の知らないことが放置されているのが我慢ならないという知性では、結局コンピューターと同様、それをなかったことにして、二度とその番組には関わらないようにするという対抗策しかもてません。
エヴァは、伏線があることを楽しめる「おとな」でなければ楽しめないアニメなのです。


あれから歳を経て幾星霜、私もすこしはおとなになりました。伏線の蜘蛛の巣の造形美を楽しめるようになりました。エンディングテーマが「Fly me to the moon」であることに気づけるようにもなりました。日本のアニメーションの高水準に改めて驚嘆しながら、この春のうちにエヴァを全制覇しようという所存でございます。
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by yamada-07 | 2006-02-04 14:53 | 雑記