by yamada-07
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

<   2007年 06月 ( 2 )   > この月の画像一覧

気を遣わなくてもいい人

好きなタイプは?と問われ「気を遣わなくてもいい人」という答えをする女の子がいた。そして同時に「話の合う人」「楽にできる人」という答えも。

どうなんだろう、私は好きな人ほど気を遣いたいと思うのだが。

好きな人と一緒にいる時ほど、その人が今この瞬間快適でいられるように、眼に見えるところ見えないところを問わず気配りをしたくなる。好きな人が喜んでいることを自分の喜びとできなければ、濃密な関係性というのは成立できないのではないだろうか。

「気を遣わなくてもいい」「楽にできる」
この二つはいずれも、自分本位の考えだと取られても仕方がないような気がする。
「相手に気を遣わせない」「相手を楽な気持ちにさせたい」
そう考える方が良好な関係性も維持できるだろうし、そもそも、そういう考えは結構楽しいものだと思う。まあそれは、前述の「好きな人の喜びを自分の喜びとする」を肯定するかどうかだが。

あるいは逆に彼女は、「自分が楽しければ相手も楽しい」という前提の上にこのような意見を述べたのだろうか。
たしかにその意見には一理ある。一対一の関係のみに関わらず、集団を形成している時に誰か一人でも不機嫌な人間がいれば、それだけでその集団の雰囲気は悪くならざるをえない。二人きりのときなど、それが極めて露骨に顕現するため、良好な関係を持続させるために、まず自分が楽しくなるというのは筋の通った話だ。

しかし、それのみが表明されては、それに付き合わされる相手は溜たまったものではないと思う。
その命題においては、対偶だけでなく、逆も真であるべきだと思う。ともすれば、この命題を声高に主張するものは、裏を真として認めてしまうような考えを持つかもしれない。たぶんそれは、危険な考えだ。

そもそも、「気を遣わなくてもいい相手」などいるのだろうか。多かれ少なかれ、好悪の感情による程度の差はあれ、必ず人は誰かに気を遣って生きているはずだ。相思相愛のカップルでも、トイレの時に扉を閉めるという配慮はあるだろうし、どんなオープンな家庭でも、子供から「なぜセックスしたの?」と聞かれて困らない親はいないだろう。
嫌いな人間なら嫌いな人間で、この人とはあまり関係を結びたくないという、ネガティブな意味での、斥力的な気の遣い方をするはずだ。
「気を遣わなくてもいい人間」などというものは、相手にどう思われてもかまわない、相手をどう思ってもかまわない、つまり相手を人間として認めていないときにのみ現れるという、非常にアンピバレントな存在であろう。
戦後、東南アジアで捕虜になっていた日本人の前で、アメリカ兵は女性でさえも平気で全裸になって着替えをしたという(会田雄二『アーロン収容所』)。彼女らは、日本人捕虜を人間であるとは思っていなかった。彼女らは、日本人捕虜に全く気を遣っていなかったのだ。
もちろんこのような関係が、恋愛関係というエロティックなものにはなりようがない。

あるいは、彼女は「それは『気を遣わない』のではない、『配慮をしていない』ということなのだ。私だって好きな人にはもちろん配慮をする。心配りを欠かさない。今言った『気を遣わない』は『気を張り詰めさせなくてもいい』という意味なのだ。精神に余計な負荷をかけないで済む、気を楽にして付き合える人、という意味なのだ。深読みするんじゃねぇこのゲス山田」と反論するかもしれない。
けれど、「常に気を張り詰めさせなくてはいけない人」なんて、恋愛感情に関わらず、友人関係の意味でも仲良くなれようがない。そんな精神をすり減らせるような意味で「気を遣う人」なんて、私は友人とも恋人とも認められない。それは単に「敬遠すべき人」だ。
つまり、彼女の言明は、恋人という一定以上に親密な関係を示して然るべきの人間を表すには意味をなしていないと言えるのではないだろうか。



ま、そんな彼女には彼氏がいて、そんなことを言ってる俺には彼女がいないというこの現実は、どちらの主張が正しいのかはっきり示しているのかもしれない。

でも俺は諦めないぞ。
[PR]
by yamada-07 | 2007-06-22 00:54 | 雑記
友人に「帯をギュッとね!」(河合克敏)を借りて読んだ。全30巻。借りて帰った日の深夜二時過ぎから読み始め、朝七時半までで26巻。そこから寝て、起きてからバイト前に一冊、帰ってから全巻読破。ま、アホですな。こらえることを知れと。
で、柔道漫画とういうことで弾みをつけて、また別の友人から「YAWARA」(浦沢直樹)を借りて読んだ。全29巻。これまた二日で読破。

同じ小学館、連載時期も六年かぶってるというこの二つの漫画。
両方とも傑作であることを前提として述べれば、「帯ギュ」は柔道漫画だけれど、「YAWARA」は柔道漫画ではないと思う。「帯ギュ」は、柔道を描いた、文字通りの柔道漫画でも、「YAWARA」は柔道をベースにした、人間模様を描いたドラマではないだろうか。

これは、二つの漫画を読み比べてみればわかる。特に柔道シーン。
端的に違いを言えば、「帯ギュ」はスポーツ中継の目線であり、「YAWARA」はドラマの目線なのだ。

基本的に「帯ギュ」では、重要な試合では、細かい動作の一つ一つを丹念に画にしている。ちょっとした足運びだとか、手さばきだとか、そういったものを実際に描いている。それは、言ってみれば、試合の内容にきちんと理屈をつけているということだ。つまりは、柔道の勝負を描こうとしている。

対して「YAWARA」は、実際の勝負の描写はかなり少ない。足の払い、体重移動、投げる瞬間、投げ飛ばした直後など、一瞬一瞬のカットを入れてはいるものの、勝負そのものの流れは寸断されている。つまりは、見栄えのするところ、美味しいところだけを効果的に画にしているのだ。だから、「帯ギュ」に比べて、「YAWARA」の試合描写はかなり少ない。一話の間に流れる時間は同じでも、一話の中で描写される情景の配分が大きく違うのだ。「YAWARA」では、試合の内容それ以上に、試合に伴う人間模様(選手でも、観客でも、あるいは試合を見ていなくても試合に関わった人の)を描き出すのに比重を大きく割り当てている。

これをして、スポーツ中継の目線と、ドラマの目線という違いで表わした。

もちろん「帯ギュ」でも人間模様は描かれている。でも、それは試合の前後でほとんどが前景化しており、試合の最中には、その勝負以外(というか柔道以外)の心理葛藤は描かれていない。

言い方を変えれば、「YAWARA」は柔道を題材にしていなくても「YAWARA」たりえただろうが(例えば空手や剣道などの他の武道。もちろんその場合には「YAWARA」というタイトルは使えないけれど)、「帯ギュ」は柔道をテーマにしていなければ「帯ギュ」たりえないだろう。
「YAWARA」のテーマは「自分の才能(性質)に振り回されそうになっている人間の葛藤」だが、「帯ギュ」は「柔道で強くなることを目指す高校生」だからだ。

実際のところ、この説明では「『帯ギュ』だって別に空手や剣道でもいいんじゃね?」という問いに的確な反論ができないのだが、それはやはり、柔道の勝負の描きこみ方の違い、という点を押すしかない。要は、作者がそれぞれの作品で、なにを書きたかったかということだと思う。

正直なところ、「帯ギュ」は漫画の構成という点では、「YAWARA」には一歩譲らざるを得ない。一つ一つの動作を細かく描写して行くということは、どうしてもストーリー展開やコマ割が冗長になりやすいという欠点を孕んでしまう。それがそこかしこで見えてしまうのは、構成上仕方のないところかもしれない。
あるいは、猪熊柔という登場人物内でも最強レベルの存在を描くためには、無駄なコマをカットして、その豪快な結果のインパクトでもって強さを示す必要があるのかもしれない(その点、24巻での体重別選手権の時の本阿弥さやかの静かな試合の描き方が好対照となっている。アップも少なく、コマも決して大きくない)。

結局のところ、この二作品を分けるのは、どちらを読んで柔道をやりたくなるかということなのかもしれない。それはまず間違いなく「帯ギュ」。これは、作者の技量云々ではなく、漫画の構成そのものの違いなのだろう。それが、柔道漫画と人間ドラマの違いなのだ。


以下蛇足の感想。

この頃の河合克敏はまだ人間の書き方が安定しないが(単純に作画の意味で。髪形を変えれば見分けがつかない登場人物多数)、それでもやたら女性陣が可愛かったりする。特に桜子と麻里ちゃんは、個人的にかなりくるものがある。そして、それと対照的に正ヒロインのないがしろのされ方は異常。

猪熊柔の可愛さは言わずもがな。谷亮子がヤワラちゃんと愛称されるのには殺意すら覚える。その点で、Wikiの「YAWARA!」の項の一番下、その他の記述は秀逸。
「YAWARA!」で泣けるシーンは、なぜか滋悟郎じいちゃんがらみが多い。17巻の「意外な助言」「勝てぃ!」の話は白眉。
そして玉緒さんの可愛さはガチ。


どっちも面白い作品なんで読んでみてね。
[PR]
by yamada-07 | 2007-06-01 02:03 | 雑記