by yamada-07
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<   2007年 10月 ( 15 )   > この月の画像一覧

気になる漫画

皇国の守護者/佐藤大輔/集英社

ネット上で評価が高いが、打ち切りに近い形で終わったと言う話も聞いたので、なんだか手が出せない。全五巻。


惑星のさみだれ/水上悟志/少年画報社


ドロヘドロ/林田九/小学館

従兄弟に紹介され読み、面白かった。が、一度読んでしまったので、改めて買うのに少し抵抗がある。関係ないけど、ずっと「ドヘロドロ」だと思ってた。


吼えろペン/島本和彦/小学館

なぜか売ってなくて買えない。つうか、前作「燃えよペン」、続編「新吼えろペン」もあわせて考えると、結構な量になるのも腰が引ける。


貧乏姉妹物語/かずといずみ/小学館

買う勇気が出ない。たぶん面白いんだろうけど。全四巻ならそろえやすくていいと思うのだが。


ARIA/天野こずえ/マッグガーデン

やはりふんぎる勇気が出ない。既刊で11巻は多くて。


喧嘩商売/木多康昭/講談社

本誌で少しずつ読んじゃってるからなぁ。


寄生獣/岩明均/小学館

やっぱ日本人として読んでおくべきかなと。できれば古本でまとめて買いたい。
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by yamada-07 | 2007-10-30 00:50 | 駄文

食と身体と精神と

最近カロリーゼロの食品が流行っていると、WBSで言っていた。

甘味はあるけど体内で吸収されない、砂糖の代わりの甘味料を使ったコーラ(coca-cola zeroですね)、小麦粉の代わりに小麦ふすま(米でいう糠の部分。普通は捨てるところ)を使い、糖質を極力カットしたパンを使ったハンバーガー、卵黄と油を使わず、でんぷんとマリーゴールドの色素で「らしさ」を出したマヨネーズ風味の調味料etc…

ロハスだデトックスだと健康志向が謳われる昨今だけど、カロリーオフ、糖質オフ、脂質オフがここまで幅を利かせているとは思わなかった。

あえて言おう。
カロリーオフの商品は不味い。

特に砂糖の代わりにカロリーオフの甘味料を添加した食品群。これでもかってくらい美味くない。「人工的」を苦心して表現しましたって味だ。牛乳の低脂肪乳、無脂肪乳も、あんなものを飲んでまでカルシウムを摂りたいとは思わない。
食ってないから断言はすべきではないが、小麦ふすまのパンも食べたくないなぁ。米で言えば糠を炊いて食ってるようなものだぞ?味の想像がつかない。インタビューで男性が「素材の味がわかって、日本食のようでいい」などと言っていたが、味を楽しみたいなら普通に小麦のパンを食えって。ダイエットのためならそれでいいから、無理してそういうことは言って欲しくない。いや、もしかしたら美味しいのかもしれないけれど。それでも照り焼きバーガーが860円て高いよなぁ。

まあ味については個人の好みだからどうこう言うのは品のないことかもしれないが、ダイエットのために栄養を制限するってのは、身体のためにはむしろ良くないだろう。
糖分、脂質、ビタミン、ミネラル、その他人間の身体に必要な栄養素は、普通に生活していれば、自分の身体のほうから「あれがほしいこれがほしい」と要求してくるものだ。それを自分の体型を維持するために、無理矢理脳の方でその要求を遮断すれば、最終的に身体自身が不満を訴えだしてくる。それが症状としてでてくるものが、単純なだるさであったり、活発に働いてくれない頭だったり、睡眠不足だったりするわけだ。

逆に、レトルト食品ばっかり食べたり、甘いものばっかり食べたり、あるいは単純に食べ過ぎたりするのは、身体の要求ではなく、脳の欲求によるものだ。身体は、そんなにカロリーの高すぎるものばっかり食べたくないよ、塩分ばっかり摂りたくないよ、糖質たまりすぎだよ、もう消化機能は限界だよと、危険サインを出しているはずなのに、脳味噌が一時的な特定の食物の摂取、あるいは過剰摂取に快楽を見出してしまうので、そのサインを無視してしまう。こうしてメタボの出来上がりだ。

普通に生活していて、唐突に甘いものをがっつり食べたいと思ったり、ご飯を腹いっぱい食べたいと思ったりすることもあろうが、それは身体からの正常な訴えだと思う。
夕食の献立を考えながらスーパーを周っていると、不意にサンマの前で足を止めたり、レバーのパックに手を伸ばしてしまうことがある。それは身体がその食品をほしがっている証拠なのだ。
女性が男性に比べ寿命が長いのは、自分で献立を選ぶ機会が多いからだと言う説もあるが、それは今まで述べてきた理由によるものなのだ。自分の食べたいものを食べたい時に作ることで、健康状態、ひいては寿命にそこまで優位な差が出うるらしい。

健康のため、ダイエットのため脂質、糖質を抑えた食生活をするというのはわからない話では勿論ないが、それなら運動量を増やすことで脂質、糖質の消費を増やしたほうが、よっぽど健康にはいい。その上で、健康状態を害せず、身体も不満が出ない程度に、ささやかに栄養量に気を遣うべきだろう。
不味いものを食べてまでダイエットをするというのは、個人的にはひどくいただけない。「衣食足りて礼節を知る」の言葉もあるが、極端に偏った食事というのは、人間の精神状態を容易に変えてしまう。
例えば、菜食主義のような身体にいいはずの食事をずっとしていても、それが直接人間の幸福につながるとは限らない。菜食生活を始めた人間がいたが、それを続けた結果、自分の体内、精神状態がとてもクリーンになった。確かにクリーンになったが、そうすると今度は逆に、普通の食事をしている人間がとても汚らしく思えるようになってしまった。だから、肉を食べている人間(例えそれが友人であっても、否、友人だからこそ善意の気持ちで)に対して「そんなものを食べているのは劣等な人間である証だ。肉をやめて野菜を食え」とおせっかいを焼くようになってしまった。それが人間関係を好転させるかと言えばそんなことはない。自分の食べているものを「劣等の証」などと言われては、そんなことをいうやつとは付き合いたいと思うはずがないのだ。こうして友人が離れていくようになってしまったので、その男性は自身の健康と人間関係を秤に掛け、菜食主義を捨てたのだった。これは実際にあった話である。
これは極端な事例かもしれないが、食は人間の本能に根ざしているものだけあって、精神にたやすく影響を与えるのは事実だ。

身体が欲しがっているものを適切に聞き取り、適宜適量摂取する。たまには羽目を外して暴飲暴食鯨飲馬食に走ってもいいけど、たまににしといたほうがいいですよ、と。
内田樹氏の本のタイトルから抜粋するに「私の身体は頭がいい」ということです。自分の身体を大切に。
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by yamada-07 | 2007-10-22 22:19 | 雑記

10/20 ②

小さき者へ・生まれ出づる悩み/有島武郎/新潮文庫

白樺派の有名どころの最後の一人。志賀直哉については、記事にしていないけどずいぶん前に読みました。

「私」の一人称で、心情を強く語りかけていく文体は、同じく白樺派初期の『友情』にも通じるところがあるように思えます。社会性というよりは、人間個人の生き方、心情、伝えたいことを前面に押し出している文体は、正に「前へ前へ」という力の働きを感じることが出来ます。

『小さき者へ』は、作家自身を主人公に据え、自分の子供たちに語りかける形、『生まれ出づる悩み』は創作なのか実際にあったことを基にしているのか判然としないけれど、やはり主人公は有島自身と想定して構わないでしょう。
両作品とも主人公が作家自身と考えると、作品内でいわれている言葉により力強さが増すように思われます。やはり、完全な創作よりも、現実世界との関連がはっきりと見えるほうがその主張に実体性が増すようです。
その点では、同時代の作品、『友情』と大きく異なります(『友情』は、主人公に現実との関連性を、作品だけを読む上では特に感じません)。

というか、これはWikiで調べて知ったのですが、「白樺派」と呼ばれるグループはあっても、それはあくまでサロンのような存在で、作品の方向性に格別類似性があるわけではないようですね。
志賀直哉の「小僧の神様・城の崎にて」は、武者小路実篤、有島武郎の作風とはかなり異なります。もっとも、志賀直哉は、「白樺」創刊後から数年し、武者小路実篤が提唱する人道主義的傾倒を嫌って離反していったので、特にその傾向が強いのかもしれませんし、同書も「白樺」離反寸前に書かれたものなので、もっと前に書かれたものを読んでから判断したほうがいいようですが(『清兵衛と瓢箪』あたりが比較に丁度よい時期のようです)。

有島武郎の力強い語りかけの文体は、なかなか嫌いではありません。血潮が脈打っている文章とでも言いましょうか、作者の鼓動が聞こえてくるようです。
『友情』の文体は、もっと傷つきやすい若さと潔癖さが混じっていて、主人公のtragicを気取っているかのような印象が少し気になってしまいます。
しかし、同じく武者小路実篤の『真理先生』の文章は、実に穏やかで慌てる様子のない、悠々としたものになっています。『友情』から実に30年も経った後の文章ですが、人生の年輪がにじみ出ていると感じられるのです。そのような腰の据わった文章を書いてみたいものです。

そのうちに、志賀直哉の初期の作品とともに、有島の後期の作品も読んでみたいと思っていますが、それぞれの作家に年を経たことによる文体の変化がどのように見られるのか、気になるところです。
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by yamada-07 | 2007-10-21 23:21 | 青春の一ページ

職人の技

10/21付のテレビ東京の「日曜ビッグバラエティ」は面白かった。

メイド・イン・ニッポン 世界に誇る町工場の職人魂

八時をいくらか回ってから見始めたので、最初の特集(極小豆電球)は見逃してしまったのだが、それ以降のは全部見た。食い入るように見た。


5/1000mmのレベルで、自分の感覚だけを頼りに刃先の合わせをやすりで調節する職人。

一枚の金属製の円盤を、全身の力を振り絞りながらもmm単位の厚さで変形させていく職人。

ほとんどの部品を自分ひとりで手作りし、オーダーメイドの自転車を作り上げていく職人。


世界に誇る技術水準が、ぱっと見何の変哲もない町工場に隠れている。
ロケットに使われる部品なぞ、1/100mmの世界で誤差は許されないものだが、それを手作業で生み出してしまう熟練の技術には敬意を払わずにはいられない。この領域にコンピューターが入ってこられるのは、まだまだ先のことだろう。

しかし、コンピューターの分野では、逆にこのような熟練工、人間の感覚の精緻さになんとかして追いついていこうという努力が続けられているのだろう。それを考えても、また研究者たちの熱意には頭が下がる。
それでも個人的には、人間のそのような繊細にして大胆な感覚の世界は、永遠にコンピューターには追いつけないでいて欲しいと思ってしまう。

閑話休題、彼らに共通して見受けられたのは、並々ならぬ自分の仕事に対する誇りだ。
この仕事に関しては、絶対的に自信をもってクライアントを満足させる。その熱意と自負が、画面を通してぐいぐい伝わってきた。
あと、みんないい顔をしている。単純な美醜を飛び越えて、内面からにじみ出るような実に魅力のある笑顔を見せるのだ。これが自分の人生に誇りをもてる人間の顔なのだろうか。

まだそこまで絶対的に自負するものをもてていない自分は、彼らのような笑顔に憧れざるを得ない。
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by yamada-07 | 2007-10-21 22:13 | 日記

10/20 ①

のはなし/伊集院光/宝島社

auのメルマガで、週3で配信していたコンテンツをまとめて出版された本。
「七文字以内でテーマを送って」とメルマガ登録者に呼びかけ、送られてきた言葉の中から伊集院がびびっときたものについて書いてます。メルマガ編集部のほうからは400字くらいでいいと言われていたのに、平気で2000字くらい。

「結婚式」や「エロ本隠し場所」、「嫌いな食べ物」などといったわりかし具体的なお題ならともかく「ミシン」、「路地裏」、「ピロリ菌」なんてのは、具体的であってもそうそう思い出があるものじゃない。「無神論」から面白にもっていくのは至難の技だろう。「血で血を洗う」なんか出くわすことも考えたこともなかなかないようなものだ。挙句の果てには「ん?」なんてテーマもある。そこからどう広げろと。
まあ編集者やらがテーマを決めるのではなく、伊集院本人がびびっときたものを選んでいるので、「血で血を洗う」や「ん?」でも脳裏に兆すものがあったのだろう。

全82話で、ばらつきはあるものの各話1500字前後でまとまっている。一話ごとの分量は少ないので、暇つぶしにぱらぱら読むには最適だと言っていい。
ただ、面白さとしては、以前出版されたみうらじゅんとの共著「D.T」のほうが面白かった。まあそれは本書がもともとメルマガ配信の文章と言うことで、黒伊集院を前面にだすわけにはいかなかったのだろう。多少なりとも下品な話も収録されているが、特にお子様の教育を害するほどではない。せいぜいR12だ。

「D.T」は対談およびコーナー本だったので、伊集院の書く文章を読むのはこれが初めてだ。勿論お昼のピクニックフェイス伊集院の書く文章という断りはあるだが。

伊集院は、被害妄想加害妄想誇大妄想の三大疾病を抱えているが、それが功を奏してと表現していいだろう、自分がしゃべっていることをしっかり自覚している。
臆病だから、何かを簡単に鵜呑みにすることは出来ないし、つまはじきにされると思ってしまうから、世間の風潮に簡単に乗れない。だから、ラジオのDJをしているときも、今自分が話していることは自分しか考えていないことかもしれない、自分しか憤慨していないことかもしれないと、内心常にびくびくしながらしゃべっている。それゆえ、この話を聞いてくれている人(自分の考えに「はあ?」という顔をしている人)にも誤解が極力生じないように、丁寧に(かつ面白く)話そうとするのだ。そういう点では、意外なことに内田樹氏の著作に通ずるところがある。

本書も、伊集院のそのような性格が発露しているものだと言える。読んでいて、読者に気を遣っていることがよくわかるのだ。だから話の敷居がとても低いが、裏を返せばその分物足りないところが増えるともいえる。
文字数制限のない普通の本ならば、平易さを旨としても、分量と論理展開でいくらでも深みのある文章にできるが、いかんせんこの文章の元の媒体はメルマガだ。原稿用紙三、四枚で万人に受けやすいものを書くことを考えれば、黒伊集院になれた人間のおなかを満たしきることは難しいだろう。

文章は、前歴も関係してかどこか落語的で、高座から語りかけられているような感触がある。
下品で笑える話の内容に隠れがちだが、その語り口はおじいさん的である気がする。varbalな文章なので、手ざわりという表現を使いづらいが、「おじいさんのチョッキ」とでも表現しようか。
厚手の生地で少しざらついてはいるが、温かく労わるようにこちらを包んでくれる。そしてどこか懐かしい。そんな文章。


最後になるが、どうやらこの本かなり売れているようだ。近所の本屋どこを探しても売り切れで、先日重が版出来されたことでようやく手に入った。これは「のはなし2」を期待せざるを得ない。
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by yamada-07 | 2007-10-21 01:49 | 青春の一ページ

10/19

疲れすぎて眠れぬ夜のために/内田樹/角川文庫

角川から同名で発行されていた単行本の文庫化。
好きな本は単行本で買うことを原則としているが、この本はインターネットやその他媒体で既に発表されている文章の再録本だという先入観があったので、単行本には手を出していなかった。文庫化されたので買って読んでみたら、そんなことは全くありませんでしたね。書き下ろし、というか、本人の言葉を借りれば「語り下ろし」の本のようです。

この本のテーマは、「『自分らしく生きる』という物言いはもうやめにしないか」、「身体には敬意を払うべきだ」、「金銭、社会的地位が至上の価値であるということを当為とすべきではない」、「思想には賞味期限がある」などといった、氏の著作によくみられものが散見しています。というよりは、ここ数年で出版されている上記のような氏の著作のテーマを短くまとめて、その総体として「肩肘張らずもっと愉快に生きよう」というテーマにまとめていると言ったほうが適切かもしれません。

書いてあること自体は、まあ他の著作を読んでいれば大同小異といって構わないでしょう。
それについては氏自身も作品内で言っていますが、多少の時間のずれがあるとはいえ、同じ人間が書いているのだからそんなに差が出るわけがないんです。
また、やはり作品内でいっている言葉ですが、桑田佳祐の音楽の例を引いて、ファンは作品ごとに全く別のものを期待しているわけではなく、似たようなものが微妙な差異を持って繰り返し反復されることに快感を見出していると言っています。私も、この本が今までの氏の文体、思想とは全く違うようなことを書かれていては、おそらく買ってはいなかったでしょう。『内田樹の新境地』などといった惹句には、特に興味が湧きません。

大同小異のテーマの本書ですが、それでも買って損したとは思いません。
私は氏の著作でも、身体論が中心となっているものはあまり購入していません(「身体の言い分」と「健全な肉体に狂気は宿る」だけです)ので、この作品の中で語られている身体論の話は、初見のものがいくつかありました。それ以外のテーマでも、他のものから幾分変奏したものもあります。


特に学術的なものというよりは、エッセイの類に多いのですが、氏の文章は優しく柔らかく、でも折り目正しいものであるという印象受けます。男性的な力強い語り口ではなく、本人も他の著書で言っていますが、どこか女性的、もっと言えばおばさん的、さらに正確に言えば、昔は色々学問を修めたけれど、今は結婚して専業主婦をしている、品のいい山手のおばさんのような口調が感じられます。
相手の反応を確かめながら話を展開している(これは語り下ろしなのでそれが顕著かもしれませんが、他の著作でも同様に)感覚があり、それがとても優しいのです。そうですね、「お母さんが作ってくれる玉子焼き」のような手ざわりとでもいいましょうか。あるいは、「お母さんがアイロンをかけてくれたシャツ」のような手ざわりでもいいです。とにかく優しさとぬくもりがあります。


同じく角川文庫から出版されている前著「ためらいの倫理学」は、もともと本として出版されることを全く想定していない文章が多いので(多くはブログの記事の選り抜き。その他、書評や学内報、学会誌に寄稿した文章が使われている)、非常に毒の強いものが多々あるが、本書はあらかじめ本にすることが前提の語り下ろしであるため、文章はかなりソフトに仕上がっています。
氏の考え方についても、とっつきやすいところがとっつきやすく書かれているので、内田樹入門書といえる本だと思います。
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by yamada-07 | 2007-10-21 00:53 | 青春の一ページ

説得力とはなんぞや

どこぞの友人が「説得力とはなんぞや」と言っていた。
説得力と言う言葉は、日常でなんの疑問もなく使われている。確かにその言葉自体には特に疑問を挟む余地はない。「相手を納得させるだけの力。その力のある話し方や論理の展開のしかた」(大辞林より)と、意味が明白な言葉だ。
しかし、それが何に由来するかとなると、途端に確たることが言えなくなる。上記の引用の後半には「その力のある話し方や論理の展開のしかた」とあるが、経験上、同じような話し方をされても、その話に説得力がある人とない人というのは確かに存在する。
この説明では、「話し方」や「論理の展開のしかた」と、かなり抽象性の高い表現をしている。つまり、それだけ一義的な説明をしづらいと言うことだ。
今回、あえてその抽象性に具体的な事例を付加していき、説得力と言うものの詳細を考えてみようと思う。

個人的には、説得力の強さに大きく寄与するものとして、「声」があると思う。
「顔の悪い詐欺師はいても、声の悪い詐欺師はいない」とは内田樹氏の言葉だが、自分はそれに深く賛同する。
どんなに論理展開が上手くても、話の筋道が通っていても、それだけで説得力が生まれるとは言い難い。
例えば、会社の会議で企画説明をするときに、わら半紙やチラシの裏に手書きで汚く書かれた書類を渡されては、どんなにその企画の内容がよかろうとも、それを通すことにひどく抵抗を感じるだろう。その抵抗は、企画の内容そのものではなく、実際に企画が通ってプロジェクトが始動した際に、その内容を的確に実行できるのかという疑念から生まれるものだ。
同じ企画なら、きちんとパソコンで清書したものをプリンター用紙で配ってくれたほうが、よっぽど信頼が置ける。会議に臨むに当たり、TPOを弁えて振舞える人間なら、いざ企画が実行に移されたときも理に適った采配を振るってくれることが期待できる。

これは文章によるケースだが、口頭の場合にあてはめてみても事情はさして変わらないことは経験上頷けるのではないか。どんなに論理展開が巧みで、話の筋がわかりやすくとも、話す人間の声が悪ければいまいち説得力に欠ける。その話を信じてみようという気にはなれない。翻って、声がよければ論旨が荒くとも引き込まれるところ大であろう。

上で「声が良い/悪い」と抽象的な表現を使ってしまったので、さらに具体的に言い直したい。
声の良い悪いは、つまりある話に説得力があるかどうかとは、その話に現実性、実効性をかんじられるかどうか、ということだ。

つまり、ある話を誰かから聞いたときに、
「確かに今の話はわかりやすかった、論理も妥当だった。ならばその話をしてくれたこの人は今してくれた話を実行できるのか、実際性を信じているのか」
このような問いかけを自問自答した上で、YESと答えられるような人間の話には説得力があると言えるのではないか。話し手の確信がにじみ出ている声をして、いい声と言えるのではないか。

これだけ書くと、説得力というもの、声の良し悪しは強く属人的であるような印象を受ける。
確かにその側面は十分あるのだけれど、それを属人性と大雑把にくくりきるのは正しくない。人間個人一般とは言い切ることはできず、その個人の状況、性質により、説得力は増減しうると思う。

どういうことかといえば、全く同じ話をしても、その話をした時期によっては、話の実効性、実際性を当人が信じているかどうかで、説得力は変化するのではないかということだ。

例えば、コンサートをするのに広報活動の一環としてチラシを配るとする。チラシの配布を提案した人間は、講義で習った内容を引用して、「チラシによる広報の効果はおよそ10%。1000枚配れば、直接自分たちのことを知らない人でも100人は来てくれるはずだ」と主張したとする。

例えばと書いたが、これは実際に私の身に起きた話だ。この話を聞いたとき私は、その話し手の言葉に全く賛同する気が起きなかった。彼は流暢にそれを説明したのだが、私の感想は「ふーん(ホジホジ)、あっそ(ピン)」程度のものだった。周囲の反応も特別関心高いものではなかったように思う(脳内変換が行われている可能性は否定できないので。断言は出来ないが)。
なぜそう思ったのか、今考えてみれば、彼自身がその理屈に納得していなかったからではないかと推測できる。授業で聞きかじった頭でっかちな言葉を振りかざすだけで、言葉に体感がおっついていなかったのではないか。

もし仮にその理論の説明がたどたどしくても、かつて自分がその理論に従い行ったビラ配りで理論どおりの結果が出てさえいれば、彼の言葉は他の人間を納得させるに足る説得力があるはずだ。論理性に多少の瑕疵があっても、声に帯びる真実味は、それを補うに足るものであると思う。

逆に言えば、いくら立て板に水で話をしたところで、自分自身でその理論に疑いを持っていれば、それは必ず声に現れる。自分で自分の言葉を信じていない軽薄な態度は、声を中心に表出してしまうものだ。

話の間の取り方や視線の配り方なども、説得力の要件として重要であるかもしれない。しかしそれも、私は論理性や話の筋道などと同様、話の上でのテクニカルな要素であると思う。テクニカルであると言うことは、後付けであるということだ。付加的なものであるということだ。声と説得力は必要十分の関係にあるが、テクニカルな要素は説得力の十分条件でしかない。声がよければ説得力はあるけれど、テクニカルな面に秀でていれば説得力もいや増すということだ。

ここで先に挙げた詐欺師の話になるが、詐欺師は自分の話したことが嘘であることを理解している(そうでなければ詐欺師ではない。自分の話が嘘であることを知らずに間違ったことをしゃべる人間は、ただのはた迷惑なお馬鹿さんだ)。理解したうえで、その嘘は本当であると自分に信じ込ませて他人に話すのだ。それゆえ、詐欺師の言葉には説得力がある。当座のこととはいえ、その話を自分自身で信じているのだから、声の中に真実味が生まれざるをえない。ハイエンドの詐欺師とは、相手を騙す前に、自分自身を騙しているのだ。
さらに言えば、詐欺師は嘘をつくことを生業としているので、テクニカルな部分の修練も怠らない。無理のない論理展開、相手の目を見た会話、呼吸を計った間の取り方を巧みに使いこなす。超一流の詐欺師の手口は、もはや芸術と称しても差し支えないだろう。

閑話休題、この声の良し悪しというものが、物理的に検証しうるものかは私にはわからない。内田樹氏は、自分が納得していない声と言うのは、自分の身体がそれを言うことに賛成しないので口先からしか出ていないが、逆に実感の篭った声と言うのは頭のてっぺんから身体全体を震わせて響くので、倍音成分が多く含まれている、それゆえ人の身体に響きやすいのだ、と主張している(はず)。だから、説得力のある声には物理的、あるいは生理学的に違いがあると言う。
私自身は、物理的な面まで実証しうるとは考えていない。それを断言するには、データもなければ、自分自身の納得、確信もない。だから、もし私が上記の内田氏の主張を正しいものとして言おうとすれば、その声には真実味が含まれておらず、誰かを納得させるにはいたらないだろう(理屈で言い表すことはできないが、納得させることはできないだろうとうことは、私自身の上記の主張から言い得る。あくまで実体的なデータが伴っていない、言葉の上のみの理屈だが)。
しかし、それでも人の声には、語義、文脈を越えた力が内在していると私は思う。「説得力」を左右するものの根源には「声」があるのだ。


付記:この理屈では、例えば「マルチ講には騙される人間と騙されない人間がいる。特に、胴元から派生した人間(つまり胴元にいったん騙された人間、マルチ講を詐欺ではなくまっとうな商売だと信じ込んでいる人間)から説明を受けて、それにさらに乗っかる人間もいれば、ちゃんと詐欺であることを看破して引っかからない人間もいる。その差異はどこから生まれるのか」と言ったような事例には直接答えられない。
つまり、ある人間の同様の説明(心裡状況に変化もない)を複数の人間が受けても、緒の話の説得力には効果の増減がある場合があるということだ。
これには別の理屈を援用して説明する必要があるが、今日はもう疲れたので、気が向いたときにまたいずれ。

ま、明言しておくべきは、この理屈は全く無謬のものではない、ということです。
科学者の幸せは、自分の説が、より包括的な理説の中で限定的に通用しうるものであると証明されることだ、という話を聞いたことがある気がしますが(やっぱり内田樹氏だと思う)、そういうことです。
突っ込みようのない当たり障りのない文章、理屈なんてつまらないぞ、と。
意見は批判されることで止揚し、より洗練されていくものだと思います。

以上
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by yamada-07 | 2007-10-18 22:11 | 雑記

10/15

友情/武者小路実篤/新潮文庫

たぶん一番の善人は武子。

野島と杉子がひどく独りよがりな書かれ方をしているように思われるが、それはそういう仕様なのだろうか。
仲田や早川といった、そもそもあまりよくない書かれ方をしているであろう登場人物はもちろん、好人物という設定であるはずの大宮も、最後の段にいたってはいささか傲慢なように思える。それは主人公に感情移入した結果の僻みからそう思えてしまうのだろうか。
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by yamada-07 | 2007-10-16 01:21 | 青春の一ページ

10/13 ③

無気味で素朴な囲われた世界/西尾維新/講談社ノベルス

『きみとぼくの壊れた世界』の、続編ではないが世界観を同じくする話。

まあとにかく感想としては、「西尾維新、『刀語』に飽きてるな」と。

文体としては『きみぼく』よりは『化物語』に似ている。とにかく好き勝手言葉遊びをしたがっている感じだ。巻数とページ数に強く制限のかかっている『刀語』ではとうていできない、ストーリーを無視した言葉遊び。久しぶりにだしたそのセンスは、あまりに回転しすぎて数世代先に行ってしまってる感すらある。

文体は確かに『化物語』チックだが、ストーリー展開は確かに『きみぼく』の世界だ。突然読者を鬱に突き落とす。鬱耐性のない俺には少々心臓によくない。
ネタバレになるので詳しくは言わないが、まさに突き落とすような鬱展開が用意されている。後ろからドン!みたいな。立て板に水でくりだされる洒脱な言葉遊びを楽しんでいるところに、その水が寝耳に入った!みたいな。

けれど、その落差も含めて面白い。読後に爽快感は望めないが、しっとりとしたよくわからないもやもやが残ります。ギバちゃんが渋面つくって「んーっ」ってなってるような。
「西尾維新、一気に書き上げたな」って本ですな。文体こそ多少違えど、『クビシメロマンチスト』に通じるものがあります。

『化物語』好きなら買い。
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by yamada-07 | 2007-10-13 20:54 | 青春の一ページ

10/13 ②

真理先生/武者小路実篤/新潮文庫

初めて読んだ武者小路実篤の本。『友情』などはあったのに『真理先生』だけ都内のどこにもなく、群馬に帰ってきてあっさり発見。群馬さすがすぎ。

前々から読みたかったのだが、その嗅覚は嘘じゃなかった。非常に面白かった。
タイトルこそ『真理先生』だけど、こりゃ主役は「石かき先生(馬鹿一)」でしょう。
前半こそ「真理先生」を中心に話が進むけど、中盤以降力点が完全に「石かき先生」にシフトしている。
作者が言いたいことを「石かき先生」が代弁し、語り部の「僕」やその他の登場人物が世間の目、「真理先生」が作者の理想という構造だろうか。

で、「石かき先生」が表していること。

それは一言で言い尽くせるものではなかろうけれど、簡潔に言えば「愚直な真摯さ」だろう。

真摯とは、何に対して真摯なのだろうか。それは自分自身だ。
主要な登場人物たちは、とにかく自分自身に真摯な態度をとっている。その真摯さは、ただ自己中心的であるとか、生真面目であるとか、我が強いとか、そういった画一的なものではない。
各々にとっての自分自身は、当然各々だけのもの、十人いれば十通りの、百人いれば百通りの自分自身がある。
例えばこの作品の中では、世間に対してうらみつらみを持たず人生を肯定的に生きるという本然である人もいれば、社会性などに頓着せず、ただただ自分の描く画にのみ集中している自己を所有している人もいる。自身の容姿の魅力に気づきもせず蝶よ花よと爛漫な生活をしている人もいれば、幼い頃からの苦労を金銭的にも精神的にも救ってくれた恩人のために滅私の奉公をするものもいる。
そして、それらの人間は、みなその生活にいる自分自身を理解し、その上で甘受し、あるいは抵抗している。その自分自身に対する深い理解こそ、自分自身に対する真摯さなのだ。

あるいはそれは、自然に、世界に対する敬意といってもいいかもしれない。自分がここにいまこのように在ることに対する敬意。当たり前が当たり前にできている自然への感謝。そのような態度だ。

そして、「石かき先生」による愚直さ。愚かなまでに真っ直ぐであること。それは対象への真摯さである。
「石かき先生」は、自分の絵に対して愚直だ。そして、それにひどく自覚的だ。
自分の愚直さは、世間には相容れないものだということを理解して、なお自分の絵を選ぶ。それだけ自分自身に真摯だ。

私はこのような生き方に憧れはしない。
だが、とても尊いものだと思う。敬意を払うべきであると思う。

憧れることが出来ないのは、それが自分には決して出来ないものだから。自分にはないものではなく、自分にはできない。この違いは重要だ。

人は、自分にないものを欲しがるとは言うが、決して自分には出来ないとわかるものには欲望は働かない。同じクラスの気になるあの子のことをことはあっても、テレビの向こうのアイドルに本気で恋焦がれはしない。

私は、そこまで何かに愚直になることは出来ない。心身を打ち込めるものを持ってはいない。愚直になるということに、ストップをかけてしまう自分がいる。
愚直であることのいい面も悪い面も見据えた上で、私は愚直になることに待ったをかけてしまう。そういうじぶんであることを、すでに知ってしまっている。
それゆえに愚直であることに憧れることはないし、それゆえに愚直であれる人間に敬意を払う。

話は少し逸れるが、私にはポリシーと呼びうるものはない。こうしようああしよう、こうしてはいけないああしてはいけないくらいの、己に強いていることはあるが、それはポリシーと呼びうるほどに強くはない。あえて言うなら、「ポリシーを持たないようにする」というメタ・ポリシーのようなものがあるくらいだ。
なぜそうかといえば、あまり自分が何かに束縛、拘束されないほうがいいという思いからだが、それが自分が望んで選んだスタンスだとしても、確固としたポリシーをもつ人間に敬意を払わないわけにはいかない。ポリシーのある人間には一本筋が通っている。それはともすれば頑迷さ、思考の不自由さにもつながるが(そして、それこそが自分がポリシーを持とうとしない理由なのだが)、そのようなくっきりした態度を持てる人間は、持たざる者には凛々しく見える(あるいは、私のように強いてポリシーを持たないでいる人間は、逆に自由闊達に生きているように見られるのかもしれないが。というかそうであってほしいな)。

話は逸れつつも微妙に絡むのだが、自分の性質に自覚的であるというのは非常に重要であると思う。「汝自身を知れ」とは古代ギリシャの御世から言われているが、それは人間が自我を持っている以上永遠に通用しうる言葉なのだろう。
愚直であるということは、自分自身を自覚していなくては出来ない。
何に対して愚直なのか、それを知らずに愚直であることは出来ない。対象に自覚的でない愚直は、いつか迷いだし、五里霧中の内に果ててしまうだろう。ただ無心に愚直であるということは不可能だ。
愚直さの対象は、外界にあると同時に、それを認識している自分の精神世界にもある。それゆえ、外界からの刺激は精神世界の認識に容易に影響するし、精神世界の認識の強度が外界への働きかけに応答する。二者は不可分の存在なのだ。
ゆえに、自分自身の精神世界を自覚できないものが、何かに愚直になることはできない。

ただ、愚直になれないことと、真剣になれないことは違う。
「愚直さ」は「真剣さ」の十分条件だが、逆は成立しない。
愚直さと真剣さの違いは、それが人生を賭けられるか、もっと極端に言えば、人生全てを賭けられるかどうかだ。
場面場面で真剣になることは出来ても、ならばそれに人生の全てをかけられるかと問われて、肯定できるかどうかが愚直と真剣の線引きとなる。
勿論、その肯定に覚悟が伴わなければ、それは愚直ではなくただの愚か者であるのだが。


『真理先生』から話が逸れだしたのでこの辺で切り上げるが、とにかくこの作品の登場人物は、総じて自身に自覚的である。真摯である。敬意を払いたくなるように書かれている。それゆえ、読者である自分自身も自覚的であろうと、真摯であろうと思わせる。
サン=テグジュペリの『人間の土地』と同じく、人生を、「人間」を元気付けてくれる一冊だといっていいだろう。



最後になるが、この「石かき先生」を見ていると、『G戦場ヘブンズドア』の堺田町蔵と阿久田編集長を思い出すのは俺だけだろうか。
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by yamada-07 | 2007-10-13 20:39 | 青春の一ページ