by yamada-07
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大晦日といえば

紅白を見なくなって久しいので、誰が出ようと基本的に興味はない。

それでも、今年の紅組にいる中村中はちょっと気になった。

この人のことは、今回の紅白を通じて初めて知ったのだが、性同一性障害なんだそうな。
http://www.nakamura-ataru.jp/index.html
こちらオフィシャルサイト。

戸籍上では男性だけれど、外見、および精神的には女性(でも、本人曰く「男という自覚も、女としての実感もない」という感覚であるとのこと)。

この人の歌を聴いたことはないので、歌手として(あるいはソングライターとして)どのような人間なのか何も言うことはできないし、言う気もない。

でも、彼女(便宜上こう呼ぶ)を今回の紅白に起用したNHKの考え方は、なんとなく透けて見える気がする。

性同一性障害を抱える人を起用し、(今回の場合は)その人を女性として扱う。そうすることで、そこら辺のものわかりのいい先進的なNHKをアピール!
みたいな。

穿ち過ぎな面もあろうが、どうもそのような思惑がある気がしてならない。なにしろ、良かれと思ってやることが裏目に出ることに定評のあるNHkだ。紅白離れが叫ばれ続けている中、直接的に番組内容ではなく、そのような搦め手の方面から人気の回復を図ってもおかしくはない。

番組の中で、彼女の性同一性障害をなにか露骨に絡めてくるようであれば、この推測は当たっていると思う。逆に、過剰に触れることなく、彼女のそれ以外の特性(歌唱力であるとか、楽曲であるとか、性格であるとか)に焦点を当てたなら、俺の過敏反応に過ぎないということになろう。


間違った紅白復権の努力としては、今回ならAKB48やリア・ディゾンなどに迷走が伺えるし、去年はDJ OZMAのやらかしが印象的だ。

老害が現在の風潮に携わろうとすることほどの老害はない。そして、そこらへんの匙加減がわからないがゆえに、老害は老害たりえる。
今回もそれが迸るであろう演出が、既に出演者ラインナップの時点で見え隠れしているが、中村中もその一環なのではないだろうか。邪推ならばそれに越したことはないのだが。

まあ勿論それで番組が面白ければ、どんなにその意図が見え透いていてもいいのだが、これまでの歴史を振り返って見れば、そうならないであろうことが容易に予測されるのが切ない。
一家揃って炬燵を囲み紅白を見ていて、裏番組では「紅白をぶっとばせ」などと謳っていたのは、今は昔というやつだ。


ていうか、中村中を紅組に入れるなら、美川憲一は白組でいいのか?
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by yamada-07 | 2007-12-21 18:23 | 雑記
昨日モノホンの現役小説家に会ってきた(別に村上龍ではない)。

いやはや、現職の言葉、それも生の言葉の重みは計り知れないものである。

「小説家は、今はそれになるハードルはずいぶん低くなった。なるだけなら容易になれる。だからこそ、折角なるのなら満を持してなったほうがいい。小説家になったとしても、小説家として食べていくことはまた別の問題だ。小説家としての体力がなければ、小説家『である』だけで終わってしまう」

「上手い文を書く人ならいくらでもいる。小説家として大事なのは単なる文章の技巧ではなく、『自分が何を書きたいか』というもっとごりごりした、どろどろしたものだ。それがなければ、『のようなもの』以上になれない」

みたいな話を聞いてきた(実際にはもっと色々話されたが)。
特に後半は、『G戦場ヘブンズドア』での阿久田編集長の言葉、『無駄な個性など要らない。君達は君達にしかなれない。君達が書く必然がないマンガなどいらない。マンガは練習するもんじゃない。覚醒するものだ』を思い出した。


さて、その場で聞いた話自体は、既に本などで読んだことのある言説だったが、それを直接自分に向けて伝えてもらったということに大きな価値があると思う。

その人の言うことが100%正しく「小説家」という仕事の全てに通じるわけでは決してないと思うが、実際に成果を上げた人間による、小説家という仕事についての一側面の事実であることは間違いない。

聞かせていただいた話が全て実際にあったこと、実際に行われてきたことではなく、幾許かの誇張、理想が入っていたとしても、それが話の価値を損ねるものではない。そのような話を語りうる人間が実際に小説家として成果を上げているという現実が大事なのだろう。

「過去は前未来形で語られる」というが、それは理想、心情(あるいは信条)であっても事情は変わらないだろう。小説家がその場にいた俺(ととある村長)に向かって語ったからこそ、あの話はあのような形になった。その場にいた人間が違ったり、あるいはもっと他の人間がいた場合には、大きく変わることはないだろうけれど、全く同じ話は出てこない。言ってしまえば、あの話は俺(ととある村長)のためだけに産まれてきた「物語」なのだ。そう考えれば、主にその話を向けられていたであろう俺が心揺さぶられなければ、話した甲斐がないというものだ。

格別話が上手いということでは決してなかったのだがね、そういうこととはまた次元の違うことなのだよ。
貴重な体験をさせていただいた。
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by yamada-07 | 2007-12-11 20:19 | 雑記