by yamada-07
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秋のアニメ

そろそろ秋アニメを何見るべきか考えようぜ

スレではまるで触れられていないけれど、「ヒャッコ」が面白くなるのではないかという気がしてならない。

原作を集めてはいないけど、あのストーリーとノリは映像にしたらけっこう映えるんじゃないかと思う。

完全に印象の話だけど、「みなみけ」(「おかわり」ではなく)的な面白さが出るんじゃないだろうか。

そういえば「今日の5の2」もアニメ化するらしいけど、連載当初はともかく、現在の「みなみけ」と「今日の5の2」はかなり趣を異にする漫画なので、「みなみけ」に続く二匹目の泥鰌を狙うような作り方は避けて欲しいなぁ。

あと、「化物語」はこのままアニメ化の話がどこかに行ってくれればいいと切に思う。



とりあえず、この段階で「ヒャッコ」を推していた俺がいたことは、心の片隅にとどめておいてください。





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# by yamada-07 | 2008-07-15 00:37 | 駄文

笑いの暴力性

「笑い」とは、根本的に誰かを、何かを傷つけるものであると思います。

典型的に、テレビや舞台で見るお笑いの漫才やコントなどは、仮想的に作られた「傷つけられるべき人格」がボケをして、「傷つけるべき人格」がツッコミをします。
ボケはまず何かツッコマれるようなこと(常識の埒から外れるような行為、言動)をして、そこでツッコミがボケを否定(その非常識さの指摘)することで、ウケがとれる。それが基本的なお笑いの構造です。ツッコミ不在のシュール系のものもありますが(ラーメンズなどがその代表でしょうか)、それらもこのような基本路線を踏まえたうえでの踏み外しであるはずです。

これは一般人レベルでも、事情はそう違いません。
普通の人間は日常会話のためにネタあわせなどしませんから、その場で起きる笑いは偶発的なものとなります。この「偶発的」は、場全体の流れからの意味であり、笑いを実際に起こしたもの(多くは何かにツッコミをいれたもの)にとっては、反射的と言うべきものとなります。なにかボケが転がっていたから、すかさずそれをツッコんだ、ということです。これは、相当程度のネタあわせをしている、職業としてのお笑いとは一線を画す点です。
稀に、ツッコミがないまま笑いが起きるということが日常会話でありますが、それは、そのボケがそもそもツッコミを必要としないほどに常識から乖離していると考えられます。ツッコミという明示的な指摘がなくとも、その場の人間がほぼ同一の観念で以って非常識さを感じられる状況。それがツッコミ不在の笑いです。

ツッコミは、前述したように「非常識さの指摘」です。ときにそれは比喩の形をかりて行われ(タカandトシの「欧米か」のように)ますが、そのように非常識な行為を明言することで、ボケを聞いた人間に一定の解釈の道筋を作るのです。
ボケを聞いただけでは、それに対応できない聴衆は、単にその非常識さにそれぞれの漠とした違和感を覚えるだけですが、明言されたツッコミを聞くことで、そのボケの非常識さに共通の解釈が得られるのです。


ボケとツッコミによる笑いのセットは、ツッコミによって一つの流れにオチをつけるわけですが、そこで起こる笑いには二種類あります。つまり、ツッコミがうけたのか、ボケがうけたのか、です。

前者の場合、往々にしてボケは意図せず発露しています。ボケた本人はボケたつもりがないのだけれど、その場の常識に照らし合わせてみると非常識に映ってしまう。そのような時にツッコミを入れると、不意に訪れた意図せざるボケに対して皆が抱いた違和感に、ツッコミが上手く解釈の道を与えてくれるので、ツッコミが評価されるのです。つまり、突っ込んだ人が面白いのだと認識されます(このような意図せざるボケを重ねる人のことは、「天然」などと評されます)。
このときツッコミは、生身のその人間にむかってなされています。意図せずしてボケた人間のボケは、当人にとっては当たり前の行為であり、何で笑われるかが解っていません。ですが、なぜ笑われるかが解っていないにもかかわらず、確かにその行為の主人格はボケた人間であり、ツッコミの対象、つまり、ツッコミが傷つけたのは、そのボケた人間の生身の人格なのです。
それでも、笑われた人間がそのボケに無自覚であれば、ツッコミによって付けられた傷に気づきはしないのです。というか、自分が傷つけられたとは思っていないと言う方が近いのでしょう。
他の人間が自分を笑っている(傷つけている)ようだけど、何で笑われたか(どこを傷付けられたか)よくわからない。
当人としてはこのような感覚なのではないでしょうか。
これはその人間が痛みを感じないのではなく、痛みを感じるポイントが他の人間と異なっているのだと思います。


対して後者の場合、ボケは意図的に発されたものである場合が多いのではないかと思います。
それはつまり、職業的なお笑いの場であるということですが、一般人の世界でも面白いことを言おうとする人は、その成果は置いておいても、少なからずいるはずです。
そのような人間の目論見がダダ滑った時、それは殆どの場合は、そもそもそのボケが面白くないことに起因しますが、ごく稀には、ボケそのものの完成度が高いにもかかわらず、聴衆の解釈が届かないばかりに流されてしまう悲しい事態も起こりうります。つまり、ツッコミの不在による解釈の不一致です。
幸運にも、高度なボケを発した場に高度なツッコミの能力を有する人間がいると、その聴衆の瞬発的な解釈力がボケに釣り合っていなくとも、ツッコミの示した方向性により、ボケの解釈が容易になるのです。

そして、その場合の評価はボケに対して向けられることとなります。聴衆は、ボケの違和感に不理解を抱えてしまう一瞬の思考の空白に、ふっと聞こえるツッコミの解釈でもって、そのボケを理解できるのです。
ツッコミは、ある意味で一時的に聴衆と同じ立ち位置となります。つまり、ボケを解釈する立場に置かれるのは、ボケが発された瞬間では聴衆もツッコミも変わらないのです。
しかもそれが日常会話の場では、その位置関係はより同列におかれます。ですから、ボケに対してツッコミがなされた瞬間のツッコミの立場は、同輩中の主席と言えるのです。同じ次元ではあっても自分より上位にいる(ように見える)人間。それが日常会話の中のツッコミです。
そのようなツッコミに評価を送ることは、裏返せば、自分の解釈能力がツッコミに劣後していることに同意することであり、そのような悔しい感情に陥るぐらいなら、ツッコミの存在を意識せずに、ボケの人間の高度さを賞賛したほうが、自らの精神衛生にとっては有効である。
そのような思考が無意識のうちに聴衆に起こることはそれほど不思議ではないと思います。特に、自身の解釈能力に過剰な自負があり、またツッコミに対して対抗心がある場合は。

ま、それは穿ちすぎかもしれませんが、笑いはボケの解釈に成功して初めて起こるものなので、笑ったときにまず念頭にあるのは、ツッコミという解釈(の方向性)単体ではなく、解釈とセットになったボケであるはずですから、笑いの評価をボケが持っていくことになるのはごく自然であるといえます。

さて、このときのツッコミは、職業的なお笑いと同様、仮想的に構築されたボケ人格に向かってなされています。ボケた側は突っ込まれることに自覚的ですが(むしろ突っ込まれることを待ち望むわけですが)、そのツッコミが向かう先は仮想人格であり、生身の人格には傷一つ付けられていません(それは、ボケが「ボケ」であるという了解がその場で得られれば、という留保がつきますが)。ゆえに、いくらツッコミによって傷を付けられても、ボケている本人(自覚的にボケた人間)は痛痒さえ感じないのです。


さてさて、ではこのような幸運な場が出来上がっているとしましょう。高度なボケの人間と、高度なツッコミの人間。プラスするところの聴衆。ボケがどんなに無茶振りをしても、すぐさま突っ込んで解釈のよすがを与えてくれるツッコミ。それでうける聴衆。和気藹々とした楽しい空間です。
ですが、このときボケ側が話に出た何か、あるいは自分自身ではなく、その場の人間を直接的に傷つけるようなボケをしたとしたらどうでしょう。その場の人間の(意図するとしまいと)言動を指摘して笑いに変えようとした状況です。
もしツッコミが何も言わなければ、それはもしかしたらただの誹謗中傷で終わってしまうかもしれません。ただのちょっとした言い間違えや勘違いに過ぎないものをあえて論うことで笑いを取ろうとしても、それがボケとしてどれだけ高度で、あるいは面白かろうとも、聴衆の解釈が追いつかなければ、ただの粘着質な発言、で終わってしまいます。ですが、ここでツッコミがその解釈をその人間ではなく他の何か(現実にあるがこの場には関係ないものであれ、仮想的にしつらえた架空のものであれ)に向ければ、そのボケはその場の誰かを傷つけることなく笑いで以ってオチを付けられるわけです。

ではさらに状況を捻ってみましょう。
ボケが、ツッコミの言動を拾ってボケとしたらどうか。
ツッコミのできることは二通りです。解釈を他に逸らすか、自ら受け止めるか。
楽なほうは明らかに後者です。元々自身に関することを拾われたのだから、その言動が自覚的ではなかったとしても、後から気づくのは容易です。気づいた後に、素直に自分に突っ込むか、新たに解釈の矛先を作ったうえで解釈の道を示すか、どちらが簡単かは明らかでしょう。
日常会話でそんなボケをやられれば、よっぽど高度なツッコミ能力(それはもはや、本職以上の能力と言っても過言ではないでしょう)を有していない限り、ボケとツッコミで何よりも大事なテンポを優先するために、自分自身に向けてツッコミを行う羽目になります。

これで笑いが取れれば、場としては恙無くオチを向かえたと言っていいでしょう。
ですが、ツッコミの内心としては、それは素直に喜べることではないでしょう。
なにしろ、自分自身をツッコミの対象としたということは、自分自身を傷つけたということに他ならないのですから。
前出した「意図しないボケ」の場合では、突っ込まれた人間は傷ついたとは思わない、と書きました。それは、自らのボケに無自覚であるからです。生身の人格に傷を付けられたにもかかわらず、傷の感じ方が異なるために、傷を傷として認識しないのです。
ですが、この場合、ツッコミが自分自身を対象とするということは、ツッコミが自分自身の意図していなかったボケに自覚的にならざるを得ないのです。つまり、生身の人格に付けられる傷を認識できる、認識せざるを得ないということになります。

言ってみれば、このときのツッコミは我が身を削ってボケを成立させているわけです。
比喩的に言えば、ボケはナイフを突き刺す箇所にマーキングすることで、ツッコミは実際にナイフを突き刺す行為となります。ボケはツッコミの身体に丸を描いて、ツッコミは自ら身体にナイフを突き立てるのです。

勿論自らナイフを突き立てるということは、不意に刺されるのではない以上、それなりの覚悟は出来ます。
「覚悟があればどんな痛みにだって耐えられる」と言ったのは、「グラップラー刃牙」の猪狩完至だったでしょうか。それにしたって、「痛みに耐えられる」は「痛くない」とイコールではありませんし、「傷ついていない」とイコールでもありません。痛くなさそうなのはそうやせ我慢しているだけで、流れる血は見えないようにしているに過ぎないのです。いくら流血を隠しても、それが積もり積もれば出血多量でお陀仏にだってなりうるのです。


笑いというのは、それがもたらす肯定的な結果の印象からは程遠い、かなり暴力的なものであると思います。
笑いの影には、傷つけられている何か、誰かがある。それが架空のもの、仮想的なものであるならいいけれど、実際にその場にいる人間の生身の人格である場合に、笑いがその流血を隠蔽して、付けられた傷に他の人間が気づかないこともありえます。
とはいえ、笑っている真っ最中にそんなことに気を回す必要はありません。それはボケを潰す行為であり、同時に身を削った何か、誰かの痛みを無為にすることとなってしまうからです。
大事なのは、ボケる側こそが、「もしかしたらこれは、誰かに必要以上の傷を強いてしまうボケなのではないか」という配慮をすることです。
笑って終われば全て丸く収まるといえるほど、人間の心は簡単に出来ていません。人の心は、プラスとマイナスが単純に相殺できるようにはなっていないのです。

笑いの暴力性。笑うことは常に何かを傷つけているというのだということを、ふとしたときに考えてみてもいいかもしれません。





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# by yamada-07 | 2008-07-14 22:46 | 雑記
リア充の定義について考えるスレ

「リア充」って何者なんだ?と最近思っていたところでこんなまとめが。というわけで、「リア充」について少し考えてみたいと思います。

まずは前提。
「リア充」とは「リアル(現実世界)が充実している人」の略。これは動かしようのない当為のものです。
そこからさらに定義云々という議論が発生するのは、「ではリアルの充実とは何を指すのか?」という点に共通理解を得られていないからです。

スレの意見を見てみると、そのほとんどが外形的な属性について言及しています。
曰く、恋人がいる。
曰く、友達がいる。
曰く、イケメンである。
曰く、社交的である。
曰く、休日がプライベートの予定で埋まっている。
なるほど、このような属性を全て備えている人がいれば、その人はリア充といわれるかもしれません。

ではここで一つの例をあげてみましょう。
ある24歳の男性。眼光の鋭い痩身のいい男。某難関国立をストレートで入学、卒業。同法科大学院入学、卒業。
新司法試験を受験し、現在結果待ち(そのため、社会的地位はニート)。付き合って数年経つ彼女もいて、友人にも恵まれている。
さあ、このような人間が目の前にいたら、あなたはその人をリア充と呼ぶでしょうか。

実はこの男性、私の現実の友人だったりしますが、彼をリア充と呼ぶ人間はおそらく一人もいません。彼が身に纏う空気には、彼をリア充と呼ぶことを思いもよらせないのです。

他にも高学歴であったり彼女持ちであったり、上の属性を満たすような友人はいますが(イケメンはあまりいないかも)、いずれもリア充かと問われると首を傾げざるを得ないような人間ばかりです。
勿論上記の属性を満たした上でリア充といえるような友人もいるので、単純に私がリア充に対する鼻が鈍いというわけではないと思います。
鈍いのではなく、そもそも狂っているという可能性も否定できませんが、外形的には同系統の属性を持っている人間たちにも、リア充っぽいかぽくないかと区別している以上、やはり単に外形的な属性以外にリア充か否かを差別化しているものがあると思うのです。

ではそれはなにか。
スレの一番最後に書かれている

154 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[] 投稿日:2008/05/04(日) 00:35:57.52 ID:39u2jRQK0
つまり周りから今を楽しくいきてるように見えりゃリア充だろ?

これがかなりいい線を突いているんですが、それをさらに敷衍して、「周りに自分の人生の楽しさを吹聴している人」というのが、私はリア充の定義だと思います。

外形的な指標、つまり、高給取りだとか、高学歴だとか、恋人がいるとか、プライベートが忙しいとか、そのようなものの高低はリア充かどうかについては関係なく、それについて自分がどう受け取り、さらに外界に向けてどうアピールしているかが問題なのだと思うのです。

かといって、外形的な指標が完全に蔑ろにされるのかというと、そうでもない。
例えば、イケメンで美人の彼女持ち、高学歴の25歳。彼女の惚気をやたらとしたり、趣味のサーフィンでは人気者で、職場でもその話題についてよく喋る。で、その職場はコンビニのアルバイト、という場合、彼をリア充と呼ぶのは難しい気がします。
この時彼をリア充と呼ぶことを難しくしているのは、「コンビニのアルバイト=フリーター」という職業面での指標です。いくら彼が自分の人生の楽しさを言い立てても、それを聞く人間、特に一流企業の正社員に就いていたりするなど、社会的指標が高いとされている人間(もしくは、相対的に彼より高いとされている人間)にとっては、「でもフリーターだしなぁ……」というある種相手を下に見るような気持ちで以って、彼をリア充と呼ぶことを避けてしまうと思うのです。

とすると、ここで新たな仮説が生まれます。
リア充という呼称は、社会的指標が自分と同格以上の人間にのみ使っているのではないか。

この場合の社会的指標とは、学歴や職(社会人になると、学歴以上に職歴が重視されますが)などオフィシャルな性格を持つものであり、容貌や恋人の有無などのプライベートな性格を持つ指標と対になるものです。

そもそもリア充という言葉は、2chなどで自分たちの仮想敵に対して使われた侮蔑的なニュアンスを含むものであり、その侮蔑は、自分にはないものを持っている人間を羨ましがる、いわばルサンチマン的な性格のものです。
そのため、この言葉を使うのは、社会的に上の立場と認識される人間が目下のものを馬鹿にするためではなく、「すっぱいブドウ」のキツネのように、「どうせあいつらは俺たちみたいな人間のことも知らず、視野の狭い世界で生きるんだ」というように、対象を貶めたふりをして自分を安心させるために使うのです。

ここで、また例を挙げてみましょう。
顔は十人並み。性格や人当たりがいいので友人は多いが、恋人には恵まれない。いわゆる有名大学ではないが一流企業に就職。趣味のバンドはそれなりに好評で、職場や学生時代の友人たちもよく来てくれる。
さあ、この彼はリア充と呼べるでしょうか。
これはかなり意見が分かれるところだと思います。
「性格がいい」ということで、自分の人生の充実具合をおおっぴらに言い立てる人間ではないということになり、そうすると上の定義からリア充ではないということになってしまいますが、そこには目をつぶってみると、判断に迷うところではないでしょうか。
その迷いのもとは、恋人がいないという指標と、一流企業社員という指標の拮抗でしょう。つまり、私的な指標と公的な指標の拮抗です。
前述のフリーターの彼の例では、多くの肯定的な私的指標と、フリーターという唯一の否定的な公的指標が対峙したわけですが、そこではわりとすんなり公的指標の負の側面が勝ちました。
今回は十人並みの容貌、恋人なしという負の私的指標、多い友達、好評な趣味という正の私的指標、一流企業社員という正の公的指標(学歴は正も負もない一般的なレベルとしましょうか)ということで、フリーターの例に比べて数的な差は少ないにもかかわらず、結論に差が出るのです。

ということでまとめてみると、「リア充とは、自分の人生の楽しさを吹聴する、社会的に高い指標を有する者」と言えるのではないでしょうか。
そのような人間に対して、相対的に社会的指標の劣る者が、私的な指標の優劣にああだこうだ言っているのだと思います。


んで、ここまで述べてきてなんですが、私としては、社会的指標にしろ私的指標にしろ、それに優劣を論じるのはあまり品のいいことだとは思っていませんし、また優れた指標を持っていると思っている人間がそれを吹聴することも、良識ある行為だとは思いません。
指標とはつまるところタグであり、外形的に確認できる解りやすいものでしかなく、抽象的な単純な説明にすぎないものです。タグはあくまで目安であり、そのタグが付けられていても、実際にその人間がどんな人間かが説明されているわけではありません。タグをいくら積み重ねたところで、それで人間が出来るわけではないのです。タグで多少は人間性の見当がつくことは否めませんが、それは本当に目安以下のものでしかなく、ともすればただのステレオタイプの丸呑みになってしまう危険性もあります。

なので、リア充である、つまり、(社会的指標はおいといても)自分の生活をことさらに吹聴する人間が好ましいとも思いませんが、リア充であることに難癖をつける、つまり、指標で以ってのみ他人にあーだこーだ言う人間がいいとも思いません。

根本的には、このような言葉が作り上げられてしまった社会の土壌にこそ、今の日本の問題の根っこがあるような気がしてなりません。







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# by yamada-07 | 2008-07-01 22:44 | 雑記
内田樹氏は、語彙の貧困は情感の貧困につながるとおっしゃっている。

昨今のメディアは、発信する情報の中に含まれている語彙のボーダーラインを、情報の受け手のリテラシーの最低ラインを照準して設定している。

「語彙」は「語い」に。
「範疇」は「範ちゅう」に。
「瀰漫」は「び漫」に。

「び漫」では「瀰漫」のもついやらしさ、思わず顔を顰めるような瘴気の如きニュアンスは感じ取れない。そうなれば、単純に辞書的な意味合いのみでもって「び漫」から「蔓延」や「波及」、「一般化」などの言葉に言い換えられてしまうだろう。

今日はニュースのテロップで「復しゅう」(復讐)と書かれた単語を見て、妙に白けた印象を受けてしまった。「復しゅう」では、「復讐」の持つ禍々しさ、ぎらつく力のニュアンスが届いてこない。

漢字は表意文字(あるいは表語文字)で、ひらがな・カタカナは表意文字。一文字が持つ意味の密度はまるで違う。それを語彙のボーダーを下げ「讐」を「しゅう」と表記しては、元々「復讐」にあった諸々のニュアンスがすっかり抜け落ちてしまう。「復讐」と「報復」と「仕返し」では、意味は似通っていても語の持つニュアンスは大きく違うのだ。

わかりやすい情報と、内容の薄い情報は違う。今のメディアの語彙の選択は、受け手への配慮というお題目の元で、情報の密度を薄めているようにしか思えない。

新聞やテレビ、ラジオや雑誌。かつてのメディアはその立場にもっと誇りを持っていたような気がする。情報を発信する立場、知識人としての立場ゆえの気概とでも言おうか、そのような態度があったと思う。
だが、現在の日本(海外の事例はわからないので)のメディアは、受け手に媚びた上で尊大な態度を取っているように感じられる。尊大というか、より有り体に言って見下した態度だ。媚びているのに。


話が逸れるが、企業が大きくなればなるほど、資本主義が企業全体にあまねく染み渡り、成員の目的が「利潤の追求」に先鋭化していく。
企業が利潤を追求するのは当然だ。利潤を追求しない企業なぞ存在しない。その前提は疑いようが無い。利潤を追求してこその企業だ。
だが、その成員までもが利潤の追求のみを目的にするのはいかがなものだろうか。

企業は法人格をもってはいるが、現実の人間ではない。そして企業自身が相手にするのも、たいていの場合、同じく法人格としての企業であり、それが個人であっても、屋号を持つ商人、商人格である場合がほとんどだ。
だが、実際に商行為を現場で行うのは生身の人間である。インターネットや電話、FAXなどを使い、直接対面することがなくとも、コミュニケーションをとっているのは人間同士である。

企業の活動主体たる自然人にまで資本主義が過剰に浸透すると、自然人同士のコミュニケートに雑味が混じる。いざ自然人同士が交渉をしても、相手を直接見ずに、相手の向こうに透けて見えるお金の額を見てしまうからだ。

本質的にお金そのものには価値がなく、「お金は同額の商品と交換可能である」という信憑が定着して初めてお金に価値が出来るのである。
だから、お金そのものを目的とすることは無意味なことだと言っていい。お金はなにかと交換して初めて価値が発生する。退蔵しているだけのお金はただの金属か紙切れで、預金残高も二進法のデジタル情報でしかない。
お金は欲望充足の手段であり、欲望の目的そのものにはなるべきではなく、同時に自然人の経済活動の最大(というか唯一)の目的となるべきではないのだ。


ここで話がメディアの態度に戻る。
メディアの情報も、それを発する主体としてはテレビ局であり、新聞社であり、出版社であり、ラジオ局かもしれないが、実際に情報を集め、編集し、構成し、発信するのは自然人だ。
そのとき自然人に資本主義が過剰に浸透していると、まずなにより売り上げが第一目標になってしまう。長期的なスパンではなく、短期的に最大の売り上げを目論んでしまうのだ。

するとどうなるか。

物を多く売るには、買い手の母数が多いほうがいい。この場合情報の受け手と同義だが、情報の受け手の母数を増やすには、情報の難易度を低く設定し、リテラシーの最低ラインを照準することで、母数が最大となる。
メディアからの情報の難易度が低くなれば、リテラシーの水準も上がりようが無い。少なくとも、メディアからの情報で上がることは無い。こうして負のスパイラルに飲み込まれて、リテラシー水準は低下の一途を辿っていく。

こうして受け手側の一番下を狙って媚びた態度をとる一方で、送り手としての傲慢な態度(リテラシーの低さを見下す態度)もとる。後者は、昔ながらのメディアの矜持の残骸だといってもいいと思う。情報、そして受け手への誠実さの欠如でもあるのだ。

リテラシー、あるいは受け手の情報の密度を色分けすると、現在はおそらく、上部に少ない割合で濃い情報密度が集中し、ある程度以下には薄い情報が広がっているように思える。
これは情報の量的な問題ではない。むしろ量的には、全体が同程度に浴びるような薄い情報を受けているはずだ。そのような薄い情報へのアクセスは、ボーダーを下げたテレビに新聞、最近でネットもあって、非常に楽になっている。
だが、質の高い情報を得ることが難しくなっているのだ。
質の高い情報へのアクセスまでなら、やはり一昔前に比べればずいぶん楽になった。だが、そこから先、アクセスした先の情報を理解することが、相対的に難しくなっている。情報の質が高くなったのではなく、受け手のリテラシーが下がったからであり、それの要因の一つが、語彙の貧困化なのだ。

こうして負のスパイラルがさらに高次のスパイラルを誘発して、際限の無い知性の貧困化、そして、知性の二極化を招いていく。

もはや実情は大きく異なっているが、幻想として、「メディアに携わっている人間は知的である」というものが残っていると思う。
その賞味期限ももうぎりぎり、というか偽装した上で騙し騙し使っている気もするが、それでもまだしぶとくあるはずだ。
そういう幻想に憧れてメディア世界に飛び込む人間が一定数いれば、そのような幻想は再生産されるのだが(これもまた負のスパイラルだ)、その幻想に甘んじているだけの人間が発した情報こそが、今まで述べてきたような情報になるのだと思う。

多くの不誠実なメディアの人間は「自分は知的だ」という夜郎自大な幻想を捨て、発信する情報に誠実であり、受け手の側は低い水準を狙って発せられた情報に「なめんな」と憤慨するぐらいの気概をもつ。
そんな歩み寄りがなければ、日本の未来はちょいと暗いかもしれない。






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# by yamada-07 | 2008-06-09 23:43 | 雑記

紹介

友人がお絵描きサイトを開設しました。

羊に羽

何を隠そう、現在右上に表示されている絵の作者です。

まだ始めたばかりなので作品数は少ないですが、「五年後には電脳ルーブル美術館と呼ばせてやるぜ」と息巻いていましたので、今後の活躍を期待しつつ、どうぞご覧になってみてください。


なお、同名でpixivにも登録していますので、あわせてそちらも楽しんでいただけたらと思います。
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# by yamada-07 | 2008-05-28 17:40 | 日記