by yamada-07
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ニコニコの素人達が歌った「ランティス組曲」がオリコンデイリー初登場9位

だってさ。

なーんかこういう匿名性が極めて高いものがメインカルチャーに侵入してくるのはよくない気がするのよね。


ネットの発達(完成とほぼ同時に世界的に発信できるという送り手側の視点と、どんなにコアな趣味でもネットを通じて同好の士を見つけることができるという受け手側の視点両方で、ネットの普及前後で桁の違う飛躍をした。さらに、ネット上にアップされた作品は、同時的に複数の場所で鑑賞することができる。これも作品のオンリーワンとしての固有性が極めて薄くなったことだと言える)で作品の存在の仕方が従来と変わってきているのは確かだろうけど、なーんか、ね。

この変化が、既存の(広義の)文化的作品の形態を根本的に変えてしまう潮流なのかどうかまだ確たることは言えず、もし実際にそうだとしたらこんな考え方は時代遅れの産物と後世からは蔑まされるのだろうが、それでもそうではないと自分なんかは言いたいのよ。

何でかっつー理由(言葉)を見つけられないのがまだまだ未熟だなと言ったとこだけど、いずれね。
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# by yamada-07 | 2008-03-06 22:27 | 駄文

見解の相違 完全版

キャラクター紹介公開! 4月より“ノイタミナ”ほかにて放送の『図書館戦争』キャスト決定!


原作の文中に漂うバタくささ(悪い意味ではなく、それはそういうものとして)はこの作品(小説)にとって重要なファクターだと思うのだが、この絵を見る限りまるで匂ってこない。

挿絵のない原作(一巻)を読んだ印象では、主人公は「魔法使いサリー」のよしこちゃんを体育会系かつ現代風にした感じだったんだけどなぁ。
すくなくとも美(少)女のイメージはなかったし、堂上隊員ももっと鼻息荒くて泥臭い、でもちょっとナイーブな印象だった。だからこそ、それぞれと仲のいい人間との正反対な印象が際立っていたと思うんだが。


でも、これはこれで面白い作品になりそうな気はする。フォローとかではなしに。
原作の設定はしっかりしてるから、それに準拠すれば相応の作品になるのではなかろうか。絵もイメージとは違うにしてもすっきりして見やすいし。


そもそも、この作品は小説という媒体に縛られるものではないと思う。これもやはり、いい意味でも悪い意味でもなく。

例えば伊坂幸太郎や村上春樹の作品は、小説という媒体で発表されたものだからこそ、あのような独特の価値を持ちえたのだと思う。
村上春樹の作品の例は寡聞にして知らないが、伊坂幸太郎の作品は、最近多くメディアミックスされている。代表的なものを挙げれば「陽気なギャングは地球を回す」は映画化も漫画化もされているし、そのほか多くの作品が映像化されている(実際ここまで作品がメディアミックスされる作家も珍しいのではないだろうか)。
が、個人的には、どのメディアミックス作品も成功したとは言えないのではないかと思う。
もちろん、そもそも言葉のみで表現された作品と、映像・図画で表現された作品を同列に評価することはできないが、メディアミックスされた作品は、原作のあの独特な面白さを別の形でなんとか表現しようとして、そこにこだわりすぎるあまり全体のバランスを損ねてしまったのではないかと感じられるのだ(響野さんの奥さんが加藤ローサであったことに関しては、原作レイプという単語を使うのに吝かではないが。加藤ローサはかわいいけど、あの役柄ではないだろう、どう考えても)。

とまあ、独特な文章表現をする作家の作品をメディアミックスすることには、それなりに高いハードルが用意されてしまうという話なのだが、ここで改めて原作者である作家・有川浩の作品を読むと、内容云々ではなく、その表現は決して小説という媒体に縛られてはいないと感じるのではないだろうか。
勿論それは、文章表現が陳腐だなどと大それたことを言いたいわけではない。若干近くもあるが、そんな否定的に終わるものではない。
どうしても否定的なニュアンスを帯びかねない表現で恐縮なのだが、「どこにでもありそうで、実際すぐそこにある」文章であるように私は思うのだ。
比較のために、伊坂幸太郎の文章をそれに倣って表現すれば、「どこにでありそうで、でもおいそれとみつからない」文章であると言える。

多くの作家は、基本的に「どこにでもありそうで、実際どこにでもある」文章で小説を書いている。ニワトリタマゴ的な話ではあるが、そういう文章が好まれるからこそそういう文章が多く出回るのか、そういう文章が多く出回るからこそそういう文章が小説として広く普及するのか、それをどちらと片付けることは私にはできない。しかし、ひどい言い方をすれば、大同小異の文章(内容ではないことは強調しておきたい)が多く読まれているのは事実だ。

そしてそのような文章、広くいきわたっている文章とはつまり、既知のもに還元しやすい文章だと言うことだ。想像しやすい、解釈しやすい、アレンジしやすい文章だといってもいい。
そのような文章は、その内容を伝えるためのメディアには束縛されづらいという特徴がある。その内容、設定、構造をしっかり把握すれば、他のメディアに変換するのが比較的容易なのだ。

それがつまり、「小説という媒体に縛られない」ということだ。
それはあくまで特徴であり、好き嫌いの範疇ではあっても、正邪可否の概念には馴染まないものである。私は伊坂幸太郎のようなある種特徴的なリズムの文章を好むが、それはそれだけの話。それがあるべき姿だと言うつもりは毛頭ない。


ま、そんなこんなの「図書館戦争」のアニメ化。今をときめくノイタミナ枠だが、世間の評判ほど私は好いてはいない。「墓場鬼太郎」はビビッドでいい作品だと思うけど、その前の「もやしもん」がちょっとね……。あれは菌にしか愛が届いてない。世間的には評判もよく、いい視聴率もとったみたいだけど。
けっこう好みが分かれる作品を生んでるんじゃないだろうか。「墓場鬼太郎」のあの雰囲気も、私は好きだけど、嫌いな人がいてもおかしくなさそうだしなぁ。

でも、やっぱりちろっとは見ちゃうんだろう自分が予想できます。
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# by yamada-07 | 2008-02-23 03:21 | 雑記

隣の芝は青い 完全版

我ながら言葉を弄するタイプだと思うが、時折そんなさかしらな心持ちを彼方まで吹き飛ばすようなシンプルにガツンと響く表現を読んで、ひどく悔しくなることがある。


『心に溜まった血を、ひたすら吐き出す為に。』


「神戸在住」という漫画の中で、主人公が悲しみに押し潰されそうになったときに先輩に泣きながらすがりついたシーンで、このナレーション(的な地の文)が書かれた。

直喩ですらなくずばりと言い切った『心に溜まった血』という表現にくらりとする。

漫画だと絵も付くため多少勝手は違うが、それでもそのシーンに相応しいシンプルな言葉を考えだすのは並大抵のセンスではない。

そのような、短い言葉に輻輳するように意味を持たせる、ある種「詩」的なセンスは、いつの間にか自分には手の届かないところに行ってしまった気がする。それは努力すれば手に入るかもしれないが、努力しなければ手に入らないし、努力しても手に入らないかもしれないものだ。
それは、努力すれば必ず手に入るものとは違う。自分自身との性質との相性に拠ってしまっているのだ。

「はじめの一歩」の板垣君の気持ちがちょっとわかる。
アウトファイターの板垣君のライバルは、インファイターの今井君。足を使ってどんなに細かいパンチを重ねても、一発大きいのをもらえばすぐに状況がひっくり返されてしまう。このスタイルを選んだのは自分自身だけど、それでも劣等感にも似た対抗心を抱かずにはいられない。

そんな気持ち。
ま、板垣君は実質全日本の新人王で、そこを引き合いに出すのは恐れ多くもおこがましいのだろうけど。


上に「短い言葉に輻輳するように意味を持たせる」と書いたけど、私が意識しているのはその真逆で、「言葉を選んで適切に補完させ合い、状況、心理をなるべく精密に描写する」ことだ。

ありがたいことに、時折「語彙が豊富だ」というお褒めの言葉(だよね?)をいただくことがあるが、それも、「状況、心理状態のより正確な描写をしたい」という心性の表れかもしれない。
絵の比喩で言えば、「詩」的なセンスをもつ人は、少ない絵の具でもその混ぜ合わせ方次第で自在に色を生み出せるけれど、それがない私のような人間は、多くの絵の具を用意して、それを様々にに使い分ける必要があるのだ。
あるいはそれは、キュービズムと細密画の違いにも似ているのかもしれない。世界を主観的に切り取るか、(主観的なことを自覚した上で)客観的に切り取るか、そういう違い。
主観的に感じた言葉を堂々と提示するか、自分の主観性をなるべく排除して、より広い範囲で共通認識を得られるように言葉を選ぶか。それが「詩」的と非「詩」的の違いだと思う。

少し逸れたが、そして精密描写を心がけた上で、言葉のリズム、音韻等に気を遣い、言ってみれば音読する時に楽しく読めるような文章を書く。それが私のモットーだ。

黙読している時でも、人はそれを頭の中で読み上げている。黙読ではなく、無音の音読だ。文章がリズミカル(ある一定のテンポを有する、くらいの意味で。あまりぴょんこぴょんこ飛び跳ねるイメージではない)であるほど、読書と言う行為は、内容から離れた楽しさを持ち出すと思う。
勿論書いているものが小説、エッセイ、論文調のものである以上、それが言葉の意味、文章の内容から完全に遊離することはできないし、それゆえ特にコンテンポラリーな詩などには追いつけない面だけど、逆に意味とリズムが結びついた散文には、詩とはまた違った面白さが出てくると思う。

谷川俊太郎氏は「詩は歌に恋している」と言ったけど、それに倣って言えば「言葉はリズムに恋をする」だ。氏の言葉より、もう一つ前の段階での文言だけど、だからこそ文章表現の分野でより広汎的に当てはまると思う。
品なく単語を並べ立てるのは、ある詩人の言葉を借りれば(確かこれも谷川氏だった気がするが確信はない)、「うるさい」のだ。言葉同士が軋みをあげて、言葉のリズムにノイズ(悪い意味で)が混じってしまう。それでは言葉の恋はまっとうできない。その軋みを調整して、かっちり歯車を噛み合わせてあげる。言葉とリズムが丁寧に結びついた文章は、とても「静か」なものなのだ。
ロマンチックでこっぱずかしいことを言えば、作者とは言葉とリズムのキューピッドであるべきなのだろう。うわかっこいい。


一応今回の記事は、初めから四段落目の一文を意識して普段の自分とは違う方向で書いてみたのだがどうだろうか。改めて自分で読んでも、たいして違いはない気がする。当人としては、僅かながらに差異は感じられるのだけど、それはやはり書いた本人だから、というやつだろうか。
あのようなシンプルでズシリとくる(とおぼろげながらに感じる)言葉を、普段のペラペラと進む文体の中にちょろりと入れると、音楽で言うところのリズムブレイクのようで面白いと思うのだが。
淀みなく流れる川の流れに突然石を投げ入れるようなもので、ぶしつけな流れのぶった切りに眉をひそめられるかもしれないが、印象の大きさはひとしおだろう。

蛇足ながら、逆にすごく自分らしいなと感じる文章は、一段落目と、六段落目の二文目だ。
ひとりごちの文章で一文が長くなったり、言葉をリフレインさせて文章を膨らませているのが、なんというか、ひどく「らしい」と思う。
ま、それ以外の各段落の文章も、「らしい」と言えば結局は「らしい」のだと思うけども。論の展開や、例の持ち出し方が、どうしようもなく自分的だと思う。それを抽象的に考えるとまた長くなるのでひとまず置くが。


いまのところ幸いにして、文章を読んだ人間(ま、絶対数が少ないことは事実だが)からは概ね好評をいただいているが、やはりもっと簡潔かつロジカルかつ読んでてニヤリとできるようなスパイスを効かせた文章を書いていきたいと思う。

これからもご贔屓にどうぞよろしくね。
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# by yamada-07 | 2008-02-22 02:55 | 雑記

見えそで見えない高い壁

ペットを飼ったことのある人間とない人間の間には、見えそで見えない壁がある気がする。特に、青春期を終える前に飼ったかどうかで。

それは、動物(特に愛玩動物)に対して「余裕」が持てるかどうかと言うことなのだと思う。
簡単に言ってしまえば、動物に対する慣れということなのだけれど、そう言い切ってしまうのとはちょっと違うニュアンスで。

(愛玩)動物を見て「かわいい」という感想を持つのは、老若男女問わずありうる反応だけど、ペットを飼ったことのない人間は、そこに手放しの喜色を浮かべてしまう。「手放し」がわかりづらければ、無節操と言ってもいい。
別に悪い意味合いではなく、感情の目盛りが最初からMAXまで跳ね上がってしまうということだ、極端な話。

普段から動物と触れ合う機会がないと、いざ実際に触れ合ったときに、どう取り扱っていいか解らない。経験者にはわかる微妙な力の入れ具合や、触れていい箇所悪い箇所、そんなことがわからないから、「余裕」がない。余裕がないから、感情のふり幅がフラワーロックみたいに激しい。動物の愛らしさにぴょんと飛びついてしまうのだ。 あるいは、その感情の振れ方が逆に行けば、過剰に怖がることになる。さらにあるいは、そもそも針が動かない、無関心を貫く態度をとる。どれにせよ極端だということだ。


翻って、ペットを飼ったことがある人間は、自分の家のペットに経験がある分だけ、他の動物を見てもそこには余裕がある。どんなにその動物がかわいくても、よく親しんだ比較対象(つまり自分のペット)があるから、根本的に接した時の「新鮮味」がない。初見の動物と接した時にも、その前にはっきりした「点」があるから、経験の「線」が引けてしまう(逆に考えると、未経験者は基準の点が長く残りづらいので、どんなに他の動物をかわいがっても、あくまで点の集合に過ぎなくなってしまう)。
言葉を変えれば、動物に接する経験に対して「軸」があると言ってもいい。軸があって且つぶれないから、どんなに愛らしい動物を目の前にしても簡単には動じないのだ。

社会人になって独立し、経済的、家庭的余裕ができて初めてペットを飼う人は、それまでに憧れがあったからこそ飼いたがるのだろう。憧憬ありきでペットを飼うから、ある意味でペットに対してビハインドを負っているわけだ。つまり、やはり「余裕」がない。その結果、溺愛するか、憧れ敗れてすぐに飽きるか。その極端な二択に陥りやすいのだと思う。

仮に、この人間がペットを飼ったまま子供ができた場合、子供のほうがよっぽど「余裕」のあるペットの付き合い方ができるだろう。それは初めから家庭の内にあるものだからだ。

例えば、一昔前、まだテレビが高級品だった時代には、ブラウン管の前に自作の緞帳を飾っていた家庭もあったという。もちろん今の感覚からすればそれはちゃんちゃらおかしい行為だろう。テレビはテレビじゃないか、ただの家電になにをそんな大仰なことをするのだと。

生物と無生物の違いはあれど、この例での心性に違いはたいしてないだろう。つまり異質なものに対する余裕だ。どんなに異質なものでも、それが最初からそこにあるものだという認識であれば日常の殻を破ることはない。


きっと、「みかん絵日記」や「動物のお医者さん」の楽しみ方も、ペット経験のある無しで大きく違うに違いない。

ちなみに我が家の場合では、犬を飼ってはいたが、俺が物心つく前に死んでしまったので、兄やあるいは姉まではペットに対して余裕があるかもしれないが、俺自身はどうにも危ういというちょっと珍しい状況となっている。兄や姉が動物に対してどんな反応をするのか、見たことはないが少し気になるところだ。
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# by yamada-07 | 2008-02-21 14:08 | 雑記

香ばしい男・西野

発言の香ばしさ(のみ)で話題の、キングコング西野先生のmixiのコミュニティを見てみた。

まあなんだね。当人が当人ならファンもファンかな、といったものだった。

参加者の書き込みは香ばしいわけではなく、むしろその逆で、各書き込みが妙にフレンドリーで白々しい。
例えるなら狂信的な委員長。もうちょっと具体的に言えば、精神的に甘くべたべたした木津千里が書き込んでいる感じ。

他の若手芸人のコミュニティも見てみたが、それらは特に気になるもんでもなかった。西野先生のコミュニティだけ、気持ち悪いほどのキラキラしたいい人光線が出ている。
いい人光線というか、いい人であろう光線と言う方が正確だろう。

西野先生にアンチが多いことは、ファンの方たちも周知の事実に違いない。実際、コミュニティ内の書き込みにも、アンチによる荒らしがいくつか見受けられた。だから、そのような荒らし行為の醜さを浮き上がらせるべく、過剰ともいえるほどにコミュニティ内の雰囲気をよくしようとしているのだろう。それが、いい人であろう光線の意味するところだ。

その戦略は十分効果のあるものだと思うし、俺がもし同様にそのような目にあったら、正面から相手取るのではなく、やはり無視を貫くだろう。そのような手合いには、罵倒よりも全スルーの方がよっぽどきついからだ。

とまあそのようなキラキラした和気藹々さで、コミュニティは基本的には平穏の内に運営されているようだ。


だが、その平穏さが世間でもマジョリティ足りえるのかという疑念は、心の片隅においておいたほうがいいと思う。

西野先生のどのような点を持ってファンになっているのか、俺には到底及び知ることのできない領域だけど、コミュニティ内の書き込みを見る限りでは、漫才はもとより、彼のブログを読んでファンになった、あるいはもっと好きになったという人が多く見受けられる(ちなみに俺は、本職である漫才は見たことがない、あるいは見ても記憶に残っていないので、その点からのコメントは差し控えさせてもらう)。


しかし、あのブログを読んで感じることは、「ああ、この人はエエッカッコをしたいんだな」ということぐらいだ。

かれは非常にカッコイイことを厚顔のままに言ってくれるが、そんなにカッコイイことを至極真面目に言われても、こちらとしては対応に困る。「だってお前は芸人だろ?」と。「なにをそんな高いところから言っているのか」と。

別に芸人が低い人間なんだと言うのではなく、むしろ順逆は転倒して、芸人が高いところからご高説をのたまってしまうのはオモシロにつながらないだろうということだ。
明石家さんまあたりのビッグネームの年収が一般人にも知られた当初、その余りの稼ぎの大きさに、客はしばらく素直に笑うことができなくなってしまったと言う。「なんだよ、俺たちはあいつを笑ってると思ってたのに、あいつはそんなに稼いでたのかよ」と。

この例は金の稼ぎの問題だが、本質に違いはない。賃金と言う便利な社会的指標は、その所得を稼いだ人間を容易に高いところに置きうる。社会的に上の人間を笑うのは簡単なことではない。
そんなわかりやすい人の摂理を、西野先生はよくわかってらっしゃらないのだろうか。ま、きっとわかっていないのだろう。

あと、彼は非常に自分の頑張りを公言してくれているが、自分で頑張っていると吹聴してくれる奴の痛さと言ったら相当なものだ。
頑張っている人間はかっこいいと思うけど、頑張っていると自分で言ってしまう人間はかっこよくない。それはもう我が身を振り返ることができるかどうか、大人としてのあるべき態度の問題だ。自省するそぶりがなくともかっこいい人間は皆無であるとは言わないが、そんな世界的にも一握りの人間のうちに、残念ながら西野先生は入ってはいない。入る気配も欠片もない。だから、あの自己愛垂れ流しの文章はただ痛々しいだけで終わってしまっている。


また、西野先生のブログは、なんだか言い訳のように読めてしまう。
自分はこれをやった、こう思った。
これをやっている、こうなればいいと思う。
そういうことを逐一告白するのはいいけれど、それは芸人としてどうなんだろうか。

芸人なら表現の手段は自分の芸、十歩譲って直接芸とは関係ないトーク、百歩譲ってオモシロを期したブログ等の文章表現であるべきだろう。
西野先生のブログは、あれは芸人キングコング西野として書かれているのではなく、その舞台から降りた状態、私人としての西野亮廣とみなすべきだ。
だって全然面白くないから。少なくとも芸人がオモシロを目指して書いた文とみなすのは無理がありすぎる。

芸人西野がやったことを、私人西野が説明している。けどそれは所詮解説に過ぎず、ラベル貼りに過ぎない。自分の表現を事後的に解説したところで、漫才のような時間に拘束されざるを得ない芸では、その芸を楽しむことになんの役にも立たない。後でファンがそれを見て意味の乏しい満足を得るだけだろう。

芸の最中に何を考えているだとか、漫才とは何かだとか、興味がある奴には面白いかもしれないけど、それは芸とは直接関係ない。芸は面白ければそれでいいし、それ以上の意味は芸そのものには関係ない。
その明白な無関係性から眼を逸らしながら、いい訳めいたものをつらつら書いているように読める。

そういうことをされると、一個人としてはどうかしらんが、芸人としてはかわいそうな人なんだなと思わざるを得ない。


そんな「ええかっこしいの言い訳」ブログこと西野公論
なにはともあれ、黒地に白文字はめちゃくちゃ読みづらいんでやめたほうがいいと思う。
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# by yamada-07 | 2008-02-19 02:16 | 雑記