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by yamada-07
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型と芯 ~博士に捧ぐ

日本の文化の中で、個性的であるということが、さもすばらしいことであるかのように語られだしてから随分経ちます。
その起源をどこまで遡ればいいのか確実なことはいえませんが、あまり昔、戦前戦後すぐにまで遡ることはまずないでしょう。戦後復興、高度経済成長、オイルショックを経て、バブル期に突入する前後まででの生活水準の底上げ、均質化が日本全体に及んだあたりで、そのような言説が国民全体に馴染んでいったと思われます。

もちろんそこには、戦後の復興期、日本の庇護者であると同時に目標でもあったアメリカの文化的影響が非常に強く及んでいます。非常に強く、と言うよりは、もはやそれの劣化コピーである、と言ったほうが正しいでしょうか。なぜ劣化なのかと言えば、根本的な文化背景が異なる日本とアメリカでは、個人主義が同じような効果を発揮するとは考えがたいからです。

「アメリカは罪の文化、日本は恥の文化」とは「菊と刀」の中の言葉ですが、神と信仰する個人(自身)というように、自己抑制の視点がタテ方向に存在するアメリカと、個人(自身)と同族集団内の他者という横方向の形でその視点が存在する日本では、「個人」と言うものの捉え方が大きく異なります。あくまで一対一で「個人」が規定されるアメリカに対し、日本では集団内の変容に応じて「個人」も変わらざるを得ないからです。
それゆえに、個人主義がアメリカから同様の形で流入してきても、その同質性が高ければ高いほど、逆に劣化してしまうと言う事態になります。


で、まあそんな堅っ苦しい枕は読み飛ばしてもらってもかまわないんですが、本題はここからです。


最近はそれほど個性個性と騒がれることはありませんが、それはむしろ、「個性的であるべし」というイデオロギーが十分に一般に浸透してしまった証左であると考えていいでしょう。反対に、そのようなイデオロギーが廃れてしまった、というようにもとれますが、そのような場合、必ずカウンタームーブメントとしての均質化指向が生まれます。この反動は方向が逆の場合でも起こるものであり、つまり、均質化指向のカウンターとして個性指向も生まれうるのです。通時的な状況を鑑みれば、後者が起こり再び前者が返ってきたと考えるよりは、後者のカウンタームーブメントが起こり、そのまま定着したと考える方が自然でしょう。


どうにも今回は堅っ苦しいですね。久しぶりだから緊張してるんでしょうか。


で、その今現在主流であろう「個性的たるべし」というイデオロギーですが、それは本当に妥当なものなのでしょうか。

既に冒頭の枕の中で「劣化コピーである」という言葉を使っているところから推察できる通り、私はその考え方には懐疑的です。
懐疑的であるというよりは、「個人主義というものを日本で通用させるには、いくばくかの改良が必要なのではないか」と思っているのです。
それを端的に表せば「個性は社会性に勝るものではない」ということです。
言い換えれば、個人の信条より集団の最低限のマナーを優先すべし、となるでしょうか。

既に述べたように、日本人はアメリカなどの欧米に比べ、個人(自分自身)が同族集団に規定される比率が大きいです。もちろん同族集団は単一であるわけではなく、家族、親族、町内会、学校、会社、自発参加型のコミュニティなど、お互いに重複する部分を持ちながら、多様に存在しています。
図象的なイメージを提起してみましょう。平面上に様々な大きさの円が描いてあります。それらは互いに重なったりすっぽり他の円の中に納まったり、あるいは他の円とは接することなく離れて描かれていたりしています。
この円がそれぞれの集団であり、この円が重なっている部分の任意の一箇所こそ、ある個人というわけです。
この円はそれこそ星の数こそ存在し、さらにその円同士が重なっている部分となれば、組み合わせの数は無限とも言えるほど膨大になります。つまり、個人の有り様は無限に存在すると言えるのです。

集団がこのような形で存在していることは無論のことアメリカなどでもいえるわけですが、この多様性が個人の有り様を規定する比率がそれほど高くないのが欧米的な社会なのです。
これは前述のように、神と自身、という形で主に自己に視点を当てる一神教的(唯一神)な形態の宗教ゆえです。だから、他の誰が自分(個人)を認めてくれなくても、自分が信仰する神は自分を認めてくれているはずだ、という形で自己塑形をします。これは集団的なルール(あるいはマナー)の束縛を省みることがなくなるという短所がありますが、逆に、誰も他人が見ていなくても自分が信じる神が見ているので、自分の思う悪いことはできない、という思考が導かれうるとういう利点もあります。

また話が少しそれましたね。戻します。ぐいん。

日本文化では、他人の視点を気にして、あれしちゃいけないこれしちゃいけない、と行動を規定していきます。こう書くと主体性がないように思われますが、そもそも主体性なんてものも、集団の中でどのように振舞うのが効率的であるか、自分の信条(心情でも可)に適合するかという形でしか発現しません。集団(すなわち他者)あるが故の主体です。
この他者との関係性という基盤を無視していたずらに「個性」を押し出そうとしても、それは集団内部の齟齬という形でしかありません。というよりは、集団内、他者との関係内で、その関係を無視して効率的、合目的的に行動しようということが、そもそも自家撞着なのです。

集団の中で適応する能力、すなわち社会性を後天的に取得した後で、初めて個々人の個性というものが発露していきます。今後どう変化しうるかはわかりませんが、少なくともそれが今現在の日本社会だと思います。元来、タテの関係で規定された個人が束ねられて作られている欧米社会とは、その集団的特質が異なるのです。

ゆえに、日本では「個性は社会性に先立つものではない」と考えます。
「型にはめられた人生なんて真っ平だ」、「社会の歯車にはなりたくない」などとのたまうプチ尾崎さんたちは、まず、型にはまれる人間、歯車になれる人間になってから、改めてそういうことを言って欲しいものです。
埋没している中から光ってこそ、かっこいいと思いますけどね。埋没すらできないのは、それは能力の欠如です。あるいは努力ですか。社会性なんて後天的な能力ですからね。

さ、盗んだバイクで走り出して、夜の校舎窓ガラス壊してまわろうかな。


以上、少数派山田が送る、マイノリティ・レポートでした。
by yamada-07 | 2005-11-10 00:27 | 雑記